平野先生が、あくまでも模擬的にということで、ぼくを易で占ってくださった。
 占いでは、占う事柄を絞ったほうが良いという。占いでは一般的に、比喩的な言葉で占いの結果が示されるから、前もって占いたいことを明確にしておかないと、占いの結果を解釈することもできない。
 もちろんぼくが占って欲しいのは、この連載エッセイの展望だ。
 筮竹を数えていく動作は、見えない運勢を手で探っていくかのようにも見える。
 ぼくの卦、すなわち総合的な運勢を示す記号は「大過(たいか)」だった。また卦を構成する六つの爻のうち、特に参照すべき爻というものが決まるのだけど、今回は上六(じょうろく)すなわち六つ重ねた記号のうち、一番上の爻だった。
 あとは『易経』に書かれている、卦全体の大意を示す卦辞(かじ)と、六つの爻のそれぞれの意味をあらわす爻辞(こうじ)を読めば良い。
 まず全体的な運勢である卦「大過」の大は太陽のことで、すなわち陽の度が過ぎるという意味だった。次に爻辞は、岩波文庫の『易経』によると「身の危険も考えずに川をかちわたり、頭のてっぺんまで水につかってしまうようなもので凶ではあるが、その志の殊勝さからいえば咎(とが)はない」とあって、どうも向こう見ずに取材をしつつ書き進めているこのエッセイのことを言い当てられたかのようだった。
 占いの結果についての心理学などはさておき、『易経』が四書五経として古代から現代まで読み継がれているのは――あるいはおみくじが今もなお形を変えながらも続いているのは――当たったとか外れたとか、そういった次元に留まらないからだろう。
 おみくじの和歌にしても『易経』にしても、そこに書かれている言葉は一種の〈比喩〉であって、そのままの文言をぼくたちの現実に当てはめることはできない。おみくじや易は、籤のように偶然性を用いる占いだけれど、たまたま出た現象だけから運勢を見極めるものではないのだ。和歌や卦などの言葉を〈解釈〉して、占われたことの全体像を理解して、ようやく占いは完成する。
 この構図はある程度、文学研究にも当てはまるように思われる。
 特に古典文学の研究では、何百年も前の文献資料は由来などわからないことが多く、ひとつずつ精緻な調査が必要となる。そうして複数の文献資料を読み解いていって、未知のものの〈全体像〉を明らかにしていく。
「資料をパズルのピースにたとえると、ピースが多いほど描ける絵は大きくなります。ただし古典の場合、昔のことなので欠けたピースが多く、全体としてどのような絵になるかわかりません。いろいろな資料を調べるうちに必要なピースが少しずつ見つかってきますが、すべてが埋まることはありません。それでもある程度のピースが集まってくると、そこから、おぼろげに絵が浮かび上がってくる。点と点を繋げると線や面になり、そこからどのような世界が立ち上がるのかを推理する。誤解をおそれずにいえば、それは一種の幻視、言いかえると研究における想像力なのかもしれません」
 平野先生が比喩的に語った〈幻視〉は、研究の途中段階における〈仮定〉ないしは〈予想〉と呼びうるものだろう。研究途中で全体像が見えないのは当然のことだ。しかし研究を進めるためには、見えない部分が多い段階において――もちろん並行してできるだけ多くの手がかりを探しながらも――あらかじめ全体像を見ようとする試みが必要になる。それは〈予知〉に近いものだろう。  では、仮説としての全体像はどのようにして予知できるのだろうか。
 まずは既に見つかっているピースよりもずっと外側まで視野を拡げることは重要だろう。研究の流行や時代の雰囲気に目を配ることも必要となるはずだ。自らの常識に縛られていては、新しい真実が見えてくるはずもない。
 また正しいピースを選び取る必要もある。候補となるものは無数にあって、どれも意味ありげに見えてくる。そんなとき、どう取捨選択すればいいのだろう。
「手に入ったピースについて、どのような人がどのような目的で書いたのかといった背景もふくめて調査していきますが、それが本物かどうかも見極めつつ必要なピースを集めなければいけません。さらに、ピースがどんな形でどんな色をしているかは、ピースを扱う人によって少しずつ見え方が違っています。もちろん研究なので、できるかぎり客観的・実証的であるべきですが、資料を解釈するときには、どうしてもその人の判断が入り込みます。つまり、人はそれぞれ少しずつ色の違った眼鏡を掛けていて、その眼鏡を通してピースを見ているということです。客観的に見るために、眼鏡のレンズはできるだけ透明に近い方がいいわけですが、薄い色が付いているのは避けられない。むしろレンズの色は研究者の個性といえるのかもしれません」
 文献資料やその〈解釈〉を蓄積していけば、必ず〈全体像〉が見えてくる、というわけではない。研究における比喩としての〈幻視〉は、自らの〈想像力〉によって、主体的に行われるものだ。そして――偶然見えるのではなく――必然として見るためには、自らの「興味」や「眼鏡」を、自覚的に知っていなければならない。
「研究者には色々タイプがあって、とにかく読むのが好きな人もいれば、書くのがすごく好きな人、どんどん調べていくのが好きという人もいます。私はどうだろうと考えてみたら、ばらばらのピースを繋ぐことが好きなんだと最近になって気付きました。いまは誰も知らないこと、あるいは忘れられてしまったことを、昔の資料の中から少しずつ掘りおこして、それらが結びついたとき、とっておきの宝物を見つけたような気がします。自分が何を好きで、何が得意なのか、わかってきたのは四十代になってからです」

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 おみくじの和歌や易の卦を解釈する前に自らの願いを明確にしておくことが必要であるように、未知なるものの〈全体像〉をあらかじめ知るためには――自らのことを含めて――多くのことを知らなければならない。あやふやに未来を占ったところで、自らに向き合えるはずもなく、〈隔たり〉の向こう側は見えてはこない。
 ディックの『高い城の男』を読むとき、自らの世界の歴史を知らないと、それが歴史改変SFであることに気付けないし、小説と現実が織りなす複数の〈パラレルワールド〉の構造も見えてこないだろう。
 これはどんな芸術でも同じことだ。芸術に関する知識よりも前に、自らの世界についての知識がなければ――つまり自らの視座がなければ――幻と現実の区別もつけられない。幻は幻のまま、すぐに崩れてしまう。
 見えないものを見ようとするとき、ぼくたちは自らの視座を選んでいる。自分と他者を――つまりは複数の世界を――知ろうとしなければ、安易な偏見に満ちた世界に留まることになる。
 幻は現実のものではない。いまだ現実化していない〈確率〉的なものであり、偶然と必然のあいだで揺らめいている。その揺らめきの中に、未知なるものの全体像を〈幻視〉するのだ。それゆえ〈幻視〉とは、自らの現実と可能性の世界の〈隔たり〉を超えて、〈パラレルワールド〉の全体を見ることに他ならない。
 そしておみくじや易を含むすべての占いは――まるで鏡のように――占う人間の現実を明らかにしつつ、ありうる別の世界の可能性を〈幻視〉させてくれる。占いとは、太古から続く〈世界の複数化〉のためのシステムなのだ。

(次回は一つ一つを丁寧に読むことについて、引き続き平野先生にうかがいます。)


平野多恵(ひらの・たえ/成蹊大学文学部日本文学科准教授)
1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科日本文化研究専攻日本語日本文学専門分野博士課程修了、博士(文学)。専門分野は日本中世文学。宗教者による文学的営為に関心を持ち、おみくじの文化史や古典文学教育におけるアクティブ・ラーニングについても研究する。著書『明恵 和歌と仏教の相克』(笠間書院)、共著『大学生のための文学レッスン 古典編』(三省堂)など。
東京都板橋区常盤台の天祖神社では、平野先生の授業と連携した「天祖神社歌占(うたうら)」を引くことができる。1月11日までは社内ギャラリーにて展示があり、11日の13時と15時からは先生のミニトークも。詳細は天祖神社のwebサイトにて。)

(2016年1月7日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



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