9_5black.jpg  科学では一つの難問が解かれても、また新たな、より深い問題が現れる。難問すなわち〈結び目〉の発見と解決こそが、科学の発展と言えるだろう。
 だが――あらゆる〈結び目〉がいつかほどけるとしても――すべてが人の手によって、人間の知性によってほどける保証はない。ブラックホールは人間とは無関係に、物理法則に従って蒸発する。
 小松さんは一九六八年に発表した「仏教と未来社会」 (『ニッポン国解散論』所収)のなかで、科学技術の発展によって生活上の困難が次々と解消した末に、「人間が巨大な「余暇」のなかにほうり出され」て、「途方にくれるでしょう」と書いている。さらに「さまざまな娯楽や快楽も、けっしてその空虚さを完全にはみたしてくれないと思います」と続ける。ありとあらゆる難問が解けた後でも、「余暇」「空虚さ」は残るという予言だと言える。
 これは「ゴルディアスの結び目」の発表に遡ること九年前の文章だが、〈空〉に対する小松さんの考え方はその九年間でほとんど変わっていないように思われる。〈空〉は人間にとって最後まで残り続ける難問――最も解き難い〈結び目〉ということだ。
 このどうしようもない〈空〉に対して感じる「空虚さ」は、嫌悪とも異なる〈虚無主義〉に他ならない。ひとは〈虚無〉を前にして、ただ――ブッダのように――座っていることができず、マリアのように絶望したままだったりクビチェック院長のように退廃的になったりする。仏教の〈空〉の思想は、現世的で感覚的な〈虚無主義〉が純化されたものと言えるかもしれない。
 一九六八年の「仏教と未来社会」から四十年後、二〇〇八年に発表した文章では、小松さんは次のように書いている。

 この宇宙は生命を生み出したことを喜んでくれているだろうか。知的生命体が地球の上でいろいろな事をしていることを、楽しんでくれているだろうか。私は宇宙を楽しませなければならない、と思っている。
『果しなき流れの果に』の初版あとがきで、私は二百億年くらいの時間スケールで「小説宇宙史」を「宇宙喜劇(コメディ・コスミーク)」として書きたいと記している。『虚無回廊』はその試みのつもりだったが、未完のままである。どなたか、私の代わりに壮大な「宇宙喜劇」で、宇宙を楽しませていただけないだろうか。科学者でも、作家でも、どちらでもかまわない。サイエンス・フィクションはその為にあるのだから。――「「宇宙と文学」序説」(『サイエンス・イマジネーション』所収)

 小松さんが〈宇宙喜劇〉の試みとして書いた作品が『虚無回廊』というタイトルであることは、小松さんの宇宙観を表していると見ていいだろう。「生命を生み出した」宇宙は、〈虚無〉ないしは〈空〉そのものであり、あるいは〈虚〉と〈実〉が合わさってこその宇宙〈全体〉であり、〈空〉なのだから。
 小松さんは「仏教と未来社会」から四十年を経て、〈空〉としての宇宙を満足させるものとして、〈虚無〉を満たすものとして、〈宇宙喜劇〉の概念に辿り着いたのだろうと、ぼくは考える。
 人間は「空虚さ」の前でどうしようもなく途方に暮れる。虚無主義は〈諸行無常の事実〉に基づいているがゆえに、解決しがたい難問なのだ。この難問すなわち〈ゴルディアスの結び目〉をほどくために、その〈糸口〉として、あるいはアレクサンドロスの〈両断〉となるものとして、小松さんは〈宇宙喜劇〉を書こうとしたのだ。この〈宇宙喜劇〉というアイデアがどのようにして生まれたのか――そして未完の『虚無回廊』の結末について――は今後も考察していこうと思う。

 ぼくと小池くんはかつて駒場寮の寮祭でオリジナル演劇を二人だけで上演した。客は、演じるぼくたちより一人だけ多い三人きりで、しかも寮生ばかりだったけれど、ぼくと小池くんはあの観客たちを喜ばすことができたのだろうか。
 小松さんの〈宇宙喜劇〉は、形式上は悲劇でも喜劇でも構わないはずだ。最終的に宇宙が喜ぶような、宇宙にいるすべての生物が喜ぶような劇であればいい。
 寮にいた頃、ぼくたちは小説でも戯曲でも悲劇ばかりを書いていたのだけれど、喜びや楽しさについての配慮を――忘れていたわけではないけれど――ほとんどしていなかったんじゃないだろうか。あのころのぼくたちが文学賞に応募していた小説は、〈結び目〉をほどくどころか、〈結び目〉に手が届くこともなく、〈事実〉とも〈想像〉ともかけ離れていたように今は思う。ぼくたちの劇は、悲劇でも喜劇でも不条理劇でもなかったのだ。
 宇宙を楽しませる、つまり〈宇宙喜劇〉を書くことは、きっと想像以上に困難なことに違いない。そしてもし宇宙全体を大爆笑させ、最終的には大いに感動させることができたとしても、すぐにその笑いも感動も、〈諸行無常の事実〉に従って、速やかに〈空〉に戻る。仏教はこれも〈諸行無常〉の一例とするだろうし、あるいは〈諸行無常の事実〉を忘れさせてしまう〈妄想〉や〈煩悩〉として考えるのだろう。
 ぼくは〈諸行無常〉を事実に限りなく近いものとして受け入れているが、これは「ゴルディアスの結び目」のクビチェック院長が言うように、ぼくが東アジア文化圏に生まれた人間だからだろうか。あるいは駒場寮で未来の僧侶である小池くんと日々語り合ったからだろうか。それとも宇宙にはほどけない〈結び目〉のないことを示し続ける物理学をわずかなりとも学んだからだろうか。
 個人的な思想の由来は、自分のものですら完全にトレースできるはずもないけれど、〈想像〉してみる分には面白い。
 アーサー・C・クラークは『地球幼年期の終わり』で、未来社会において仏教だけは残っているとした。一九一七年イギリスに生まれた彼がいつ仏教に出会ったのかは定かではないけれど、仏教文化圏で育ったということもなく、子供の頃の彼がまず熱中したのはSFであり、科学だった。
 SFでは世界の崩壊がしばしば描かれる。物理定数が変化する作品も少なくない。仏教もSFも科学も――三者とも内実は多種多様ではあるけれど――〈諸行無常〉という一点を共有(パルタージュ)していると言えるだろう。共有点があるからこそ、幼い頃からSFに親しんでいたクラークにとって、科学はもちろんのこと、仏教も違和感なく受け入れられたのではないだろうか。
 AI研究者の三宅陽一郎さんは知性のあり方を模索する中で仏教に関心を持たれていて――森羅万象を生み出す元となる〈種子(しゅうじ)〉をあらかじめ内包する〈阿頼耶識(あらやしき)〉など――仏教思想は宗教というよりは認識論や存在論の哲学に近いものだと考えておられるのだった。
 小池くんに伝えると彼はそれに強く同意した。そして、仏教は――〈諸行無常〉を信じるのではなく――〈諸行無常の事実〉に向き合うものだと言った。仏教は科学やSFに近いものなのだ。
 むろん、仏教以外の宗教を信じていて、かつSFや科学に親しむ人も多い。その場合は、その宗教とSFと科学という三者に対して、〈諸行無常〉とは異なる共通点を見出しているはずだ。〈宗教は宗教、科学は科学〉として、接し方を大きく変えているような場合であっても、ある種の合理化をした上で、すなわち共有できる点を見出して、自らの信念体系全体のなかに組み込んでいることは想像に難くない。
 そしてSFと親和性のある――何らかの一点を共有している――思想や宗教などの論理構造は他にもあるだろうし、今後も増えていくだろう。〈三平方の定理〉の証明の仕方が五百通り以上もあって、新しい数学を使って証明され続けているように。
 そして、仏教もSFも科学も、あらゆる思考も、互いに越境しながら拡張し続ける。
 小松さんは四十年をかけ、あるいは半世紀に及ぶ執筆活動の果てに――SF的思考を極限まで拡張して――〈空〉は永遠に満たせないのではなく、〈宇宙喜劇〉によって満たしうるのだと考えるようになった。いずれすべての劇は終わり、幕は下りる。幕が下りるときは、その劇が喜劇であっても、物悲しいものだ。それでも小松さんは次々と新しい劇の幕を上げていったのだった。
 仏教は〈想像〉をしない。どんな劇の幕も、上げようとはしない。〈今、ここ、ひと呼吸〉に立ち止まることによって、〈諸行無常の事実〉に向き合い続ける。〈想像〉をしていては、ただでさえ惑いやすい人間は、すぐに〈諸行無常〉を見失ってしまう。
 仏教には〈輪廻転生(りんねてんしょう)〉という考え方がある。生きとし生けるものが死んで、また生まれ変わることを無限に繰り返すという、インドの様々な宗教に見られる思想だ。そして、仏教が目指す〈涅槃〉とは、この〈輪廻〉から〈解脱(げだつ)〉することであり、〈解脱〉のまたの名を〈悟り〉という。仏陀という尊称は、悟りを開いた者という意味で、つまり仏陀は輪廻転生することがない。火が消えるように、自らの死を、諸行無常を受け入れているのだ。

9_6koike.jpg  小池くんは〈大小の輪廻〉という言葉を教えてくれた。生まれ変わりが大きな輪廻であり、個々人の思考や行動が生成消滅を繰り返すことを小さな輪廻とする。人間の脳が〈反復〉を好むという研究もあるようだが、仏教は二千年も前にそれに気づいていたのだ。
 涅槃を受け入れ、輪廻から解脱するため、仏教は日常的な思考においても輪廻から抜け出すことを目指す。だからこそ仏教は――〈想像〉をせずに――毎日座禅を組むのだ。
 しかし、ぼくは小池くんとの会話を思い出しながら、小松さんの小説を読みながら、こうして文章を書きながら思うのだ。〈想像〉もまた、〈諸行無常の事実〉をぼくたちに突きつけるのではないか。劇の幕が下りる時、〈諸行無常〉を強く感じるのはぼくだけではないだろう。幕が下りることと、火が消えること。〈今、ここ、ひと呼吸〉の充実は――〈諸行無常〉の世界を感じる身体性は――〈想像〉のなかにもあるのではないか。〈空〉という〈結び目〉を、仏教は事実として受け止め、SFは解くべき難問と考える。
 第二回で言及した赤毛のアンを思い出す。アンは幾何学を〈想像の余地のないもの〉と言ったが、小松さんが「ゴルディアスの結び目」で示したように、SFの想像力は〈諸行無常の事実〉に〈想像の余地〉を見出す。その〈想像〉は、〈諸行無常の事実〉を否定するというよりは、肯定的に豊饒化するだろう。
 仏教は〈諸行無常〉に向き合い、〈想像しないこと〉によって、自らの生きる世界の事実を――静かに豊かに――受け入れる。そのような手段のひとつが〈坐禅〉というわけだ。自然とあれこれ〈想像〉して、すぐに煩悩の輪廻を繰り返してしまう人間にとって、〈諸行無常の事実〉を身体的に認識するための〈坐禅〉は、〈仏教の想像力〉と表現してもいいものだろう。認識を――概念処理ではなく――身体によって行うこと、〈認識の身体化〉としての〈座禅〉だ。
 小池くんは「想像力はパルタージュできないかも」と言っていたけれど、仏教には仏教の――〈座禅〉〈涅槃(ニルヴァーナ)〉〈輪廻〉など――多様な〈想像力〉があるようにぼくには思える。その〈想像力〉は様々な分野と響き合い、共有され得るのであって、ぼくと彼は多くのことを分かち合う話ができたように思う。もしかすると十年前のぼくたち以上に。
 この日、小池くんとぼくは午後三時半から話し始めて、お茶を飲み、夕方には坂を下って稲村ヶ崎駅前の個人商店で夕食用の食材を買い、寺の台所で米を炊いて野菜を切って、手巻き寿司を食べながらも話は終わらず、気が付くと午後十時半を過ぎていた。彼は十五年前と変わらず、いつもは十一時過ぎには眠るというので今夜のところは解散となった。

9_7inamuragasaki.jpg  小池くんは坐禅会や寺の住職としての仕事の合間に、一日五時間も六時間も坐禅をしているという。日々修行を続ける彼と違って、ぼくのほうはニルヴァーナの〈悟り〉までは程遠く、このときの別れは寂しいものだったし、またの語らいを〈想像〉してしまったのだった。それはぼくの修行が足りないということなのだろうけれど、一日ずっと文章を書き続けていると、あれこれと〈想像〉をしつつも、〈煩悩〉は遠ざかっていくような気がするのだ。想像をしない仏教の修行を続ける小池くんと、想像をするSFを書くぼくとが、いつか同一の一点に辿り着く日が来るのかもしれない。それを想像するのは、きっとSFの役目だろう。

(次回は新年1月5日頃掲載です。日本古典文学研究者の平野多恵先生に〈おみくじ〉の想像力についてうかがいます。いま東京都板橋区常盤台の天祖神社では、先生の授業と連携した〈歌占(うたうら)〉が引ける他、12/30?1/11は展示が、新年1月3日には先生による解説が行われる予定です。詳細は天祖神社のwebサイトにて。)

小池龍之介(こいけ・りゅうのすけ/僧侶(僧名は龍照))
1978年生まれ。山口県出身。東京大学教養学部卒。月読寺(神奈川県鎌倉市)住職、正現寺(山口県山口市)住職。ウェブサイト「家出空間」主宰。住職としての仕事と自身の修行のかたわら、一般向け坐禅指導もおこなう。著作『考えない練習』(小学館)、『もう、怒らない』(幻冬舎)、『超訳 ブッダの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など。

(2015年10月5日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



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