ジャック・フィニイのデビュー作、第2回EQMMコンテストの処女作特別賞を得た「未亡人ポーチ」は、この連載の第54回で読みました。フィニイの短編集は、SFないしはファンタジーを中心に編まれているので、それと気づきにくいのですが、40年代後半に入って創作活動に入ったフィニイの主戦場は、スリックマガジンでした。このあたりは、運不運もありますが、デビューが早すぎたレイ・ブラッドベリや、ファン・ライターの側面をデビュー時にもっていた、ロバート・ブロックやチャールズ・ボーモントは、好むと好まざるとに関わらず、パルプマガジンに書きまくる時期が必要でした。フィニイにはそれがありません(もうひとり、そういう意味で毛色が異なったのがシャーリイ・ジャクスンです)。
 マイク・アシュリーの『SF雑誌の歴史 黄金期そして革命』には、スリックマガジンへのSF作品の流入の様子が描かれています(画期となったのは47年、ロバート・A・ハインラインの「地球の緑の丘」が、サタデイ・イヴニング・ポストに掲載されたことだそうです。ただし、それがスリックマガジンに初めてSFが掲載された事例というわけではありません)。その背後には、パルプマガジンのダイジェストサイズ化と、それにともなう質的向上があって、私には、その動きそのものが、EQMMの影響下にあるように思えてなりません。フィニイのホームグラウンドのコリアーズという雑誌は、とりわけSF作品の掲載が多く、アシュリーは同誌にSF作品を多く提供したカート・ヴォネガットとフィニイを対比して描いています(この部分、なかなか興味深いので、詳しく知りたい方はアシュリーをお目通しください)。
 もっとも、スリックマガジンにフィニイが書いていたのは、ノスタルジックな短編ばかりでも、タイムトラベルテーマのSFばかりでもありませんでした。長編の著作リストを眺めれば簡単に分かるように、フィニイは娯楽小説の達者な書き手でした。その中には、もちろん、ミステリも含まれていました。
「そんなのフェアじゃない」は、邦訳時には、女ポアロという呼称を、ヒロインのアニーに与えていましたが、パズルストーリイというよりは、謎解きものの名探偵が、現実的な事件のただ中に放り込まれることで生じる食い違いを楽しむユーモアミステリでした。平凡な作品ですが、謎解きミステリを作り物として楽しむほどには、一般的な雑誌読者にも、それが馴染んでいることを示唆しています。謎解きの興味では、むしろ「もう一本の矢」の方が、手が込んでいます。常用する薬を用いた殺人を、主治医が看破する話です。ただし、段取りがいささか悪いので、前半がのろくさく、後半がせっかちに感じます。
 やはり、フィニイの本領はミステリにはないようです。むしろ、フィニイが亡くなったときに、追悼特集としてミステリマガジンが探してきた、都会小説が面白い。「リノで途中下車」は、ぎりぎりの蓄えで、西海岸に強引に引っ越して来た夫婦が、サンフランシスコを目前にして、バスの強行軍に疲労困憊した妻を休ませるため、リノで途中下車したところから始まります。ホテルで休む妻を残して、外出した夫はカジノへ入り、クラップスのテーブルに着きます。あとは予想通り。話に意外なところはありませんが、ゲームの推移を通して、主人公の一喜一憂につきあうのが楽しい小説でした。もう一編の「予行演習の夜」は、妻の妊娠を知った夫婦が、妻の友人の幼い娘を一晩預かってみる話です。たいへん巧みに、夫は必ずしも妻ほど、子どもを純真だとも無垢だとも考えていないことを示し、そこに食い違いがある。そして、預かった女の子は、彼に就寝前のお話をねだります。夫の話す他愛ない話を通して、幼子を預かった夫婦の心が動く様子が巧みに描かれていました。もっとも、都会小説といっても「長距離電話」のように、単にムシのいいだけの話もあって、そこには出来不出来があります。作品の傾向にしても、一通りではなく、「従兄レンの驚異の形容詞壺」のような、ナンセンスな小品もあるのですから。
 このころの短編集未収録作品で、とくに注目しておきたいのは「月曜の朝が来なければ」という一編です。日曜の夜、遊びに外出をして帰宅途中の若い夫婦がいます。夫はバーかカフェに寄りたいのだけれど、明らかに妻は家に戻りたい。夫は、仕事が24時間の大半を占める、明日からの生活を考えるだけで、うんざりしているのでした。平日の鬱憤を晴らすかのような週末の楽しみが、逆に、平日を目前にした日曜の夜にいらいらを募らせる。幾通りかのパターンで描かれる週末で、まず、やるせなさをたっぷり描いて、ある日、同じように週末を過ごす、仲のいい夫婦ものの、夫同士があるアイデアを得ます。半日近くを費やしてシェラ・ネバタの山麓近くまでハイキングに来るのですが、夫たちは、周到に、そこの土地が異常なまでに安いこと、森の木を切って家を建てればただ同然で、自分の家を持てることを調べていたのでした。しかし、こんなに遠くでは通勤できないという妻たちのもっともな主張に、彼らは答えます。仕事を辞めて自給自足に近い生活をするのだと。
 ここに描かれているのは、タイムトラベルというファンタジーを抜きにして、フィニイが望むような、前世紀的アメリカ的な生活設計が出来るのかという思考実験でした。二組の夫婦は、互いに意見をぶつけ合い、ディスカッションを重ね、ある刻限を決めておいて、その段階で、このアイデアを受け入れるか否かを決めることにします。刻限は近づき、当初、否定的だった妻たちも、まったく不可能な話だとは思えなくなっていく……。結末の形がこうなるのはともかく、単調なことが気になりますが、それはいいでしょう。
「月曜の朝が来なければ」は、周到なディテイルの積み重ねで、倦怠感の淵にある週末と、そこから脱するための田舎暮らしというアイデアを描いて、フィニイの中で、ファンタジー小説がどのような位置を占めるかを、逆に考えさせてくれる作品でした。
 これを、たとえば『レベル3』に入っている「雲のなかにいるもの」「青春一滴」と比べてみてください。この2編は、『レベル3』という短編集が、全体として持つノスタルジックな過去のアメリカの魅力に対して、当時の現実のアメリカの若者をカリカチュアして描いてみせています。しかし、そこでのフィニイの筆は、どうしようもなく凡庸で、ありきたりな空想の域を出ません。そして、実を言えば、「レベル3」に代表される、ノスタルジックな作品群においても、フィニイの魅力は十全に開花していないというのが、私の考えです。なぜなら、「レベル3」では、本来、圧倒的であるべきはずの、最初に紛れ込んだグランド・セントラル駅の地下3階の描写が、しごくあっさりとしていることに気づくからです。そして、そのことは、「レベル3」に入っている、他のノスタルジックな作品群にも、あてはまります。
 そのことに気づくきっかけのひとつは、この第一短編集の最後に収められた「死者のポケットの中には」を読んだときです。『レベル3』の中で、これひとつだけが異質な「死者のポケットの中には」は、コリアーズに掲載されたのち、同誌の短編小説の傑作選にも採られたそうです。もっとも早く邦訳されたフィニイの作品でもあり、また『37の短篇』にも収録されました。非常にシンプルなサスペンス小説で、ひょんなことから、ビルの11階の窓の外に出てしまった主人公が、無事、部屋に戻るまでの一景です。巧みな段取りと細かい描写だけで、サスペンス小説が書けるという好見本です。本当のことを言えば、『37の短篇』での初読時には、たいへん感心したものの、再読時も今回も、それほどの傑作とは思えませんでした。佳作ではありますが、やはりテクニックだけの小説に見えてしまう。しかし、この描写の積み重ねが貴重なことに変わりはありません。
 そして、もうひとつのきっかけ――こちらの方が重要だと考えますが――は、6年後に出た第二短編集を読むことです。ジャック・フィニイが、キャリアの晩年に向かって、その方向を完全に定めた作品集。『ゲイルズバーグの春を愛す』です。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『土曜日の子ども』『本の窓から』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』 等がある。


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