『夜の旅その他の旅』は、確かに洗練された作品集です。
 まず、冒頭の「黄色い金管楽器の調べ」からして、そうです。若く無名の闘牛士と、そのマネージャーが、大物興行師に引き立てられる。破格の条件で迎えられ、不安を抱えて会いに行く途上から話は始まります。興行師率いる有名闘牛士たちとの出会い、明日からさっそく活躍してもらうと言われ、パーティでは美女をあてがわれる。初々しい成功物語と見られたものが、マネージャーの告白から一気にその貌を変えていきます。闘牛という生命をかけた見世物が、根本に持つ残虐さと、それでもなお、そこでスポットライトを浴びることの持つ麻薬のような魅力。半世紀経った現在では、いささか手垢がついたモチーフと展開かもしれませんが、同じ話を現在書いてもこうなるという、ひとつの定石形のような短編になっているとも言えます。
「鹿狩り」は、題名通り、職場の上司(というか経営者)ふたりから誘われた鹿狩りの顛末です。もちろん、私的な趣味以上の意味を双方ともに持って――職場において、引き立て、引き立てられるという意図を持って――の参加です。冒頭から不猟気味の狩りは、いささか不穏で、ひとりの上司の機嫌はすでに悪化しつつあります。そんなところで、鹿を見つけて狙い撃つと、みごとに命中したようで、その獲物のところへ行ってみると……という話。『ニューヨーカー短篇集』に入っていても不自然なところのない、リベラル寄りのアメリカ人が好みそうな一編でした。同じようなことは「隣人たち」にも言えて、アメリカに存在する、あからさまなまでの差別を切り取って、結末のつけ方は、むしろ意外な部類かもしれません。ただし、ほぼ同時代であろうデイヴィッド・アリグザンダー「アンクル・トム」の、事態を見る視角そのものの複雑さの前には、いささか単純な話に見えます。もっとも、それは作家としての資質というよりも、ふたつの小説が、それぞれ、アメリカ社会のどこを描くかという点で異なっているのだと思います。
「夜の旅」はジャズミュージシャンの内幕を描いたものですが、平凡な作品で、それよりは「人里離れた死」のドサ回りのカーレーサーの方が、知らない世界を読者に届けるという点からも、小説としての想像力が巧く働いているという点でも、秀れていると考えます。3位入賞の賞金350ドルを稼ぐといういじましさと、それでも死と隣り合わせになってしまうという怖さ、悲惨さ。ショウビジネスという華やかな世界と、そこで生き続けるための泥臭い打算を描いて、見事なものです。しかも、その打算がすでにリスキーなものであったというのが「人里離れた死」ならば、そんな打算の単調さが主人公を狂わせるのが「魔術師」です。「魔術師」の主人公の破滅が、よりスケールを大きく破滅的に仕組まれた陰謀として現われるのが「黄色い金管楽器の調べ」でしょう。破滅に向かって彼らを歩ませるのは、夢を売る商売には、売る側をも魅了するだけの夢があるという単純な事実でした。
 ここには、たかだか30年ほど昔には、一部の富豪を除いて、全体が貧しい社会であったアメリカと、それがためにわずかな金のために身体を張ってでも、芸を売り夢を売る商売(その象徴かつ典型がハリウッドでしょう)が成立していたものが、過去のものへとなっていく過程が、背後に聳えていました。そして、成功したアッパーミドルの退屈が生み出したのが「越して来た夫婦」の恐怖の世界でした。デイヴィッド・イーリイの「ヨットクラブ」に先行する、この短編は、しかし、加害者の倦怠を描くよりも、巻き込まれた夫婦の恐怖を描くことで、「ヨットクラブ」の先進性に一歩を譲る結果となりました。
 この他にも、微笑を誘うユーモアの「古典的な事件」「性愛教授」。アイデアストーリイも書いているところを見せた「お父さん、なつかしいお父さん」といった作品もありますが、「人里離れた死」と並ぶ、この短編集の白眉は「淑女のための唄」でしょう。  大西洋を航海する、どうにも足の遅い船という奇妙な設定が、まず読者を捉えます。そして、そこにもの好きにも乗り込んだアメリカ人の若いカップルは、自分たちが招かれざる客であることを、乗船早々知らされます。他に乗っているのはイギリス人の老人ばかりなのでした。非常に奇妙な設定でありながら、その奇妙さは具体的に奇妙である――たとえば「夜汽車」「餓え」がいまひとつなのは、奇妙さが抽象的なためではないでしょうか?――と同時に、現実にありえない奇妙さではない。「ロバータ」に見られたボーモントタッチの再来です。その奇妙さに主人公のカップルが慣れ、したがって、読者も慣れたころ、船はヨーロッパを目前にし、そして、不意に結末がやって来ます。そこには、それまでの奇妙さをさらに奇妙に裏切る形で、主人公たちが、実際には船に慣れてはいなかったことを知らされるのです。
 結局のところ、ボーモントが真に素晴らしい短編を書いたときというのは、こうした形で奇妙なイマジネーションが発動された場合ではなかったでしょうか。

 ふたたび第一短編集に戻ることにしましょう。
「フェア・レディ」はボーモントの「普通の小説」の中でも屈指のものでしょう。毎日乗るバスの中でかけられた些細な一言――しかも聞き違いというか誤解なのですが――が、ヒロインを幸せにしてしまう。しかし、ある日突然、ヒロインの幸せは破られます。彼女を幸福にしていた運転手が別の路線バスに配置換えされてしまったのです。現実生活をトレースしたかのような些細なスケッチのはずの作品が、ポンと飛躍するのは、その結末においてでした。ここには、リング・ラードナーやアーウィン・ショウ顔負けの、ソフィスティケイティッドされた作家がいました。この作品は、短編集に書き下ろされたもののようですが、つまり、こうした洗練された筆を、ボーモントは初めから持っていたのです。  また、「ロバータ」と並ぶ奇妙な短編の秀作が「ダーク・ミュージック」です。ミス・メイプルはハイスクールの生物の教師ですが、性教育をすることを拒否して問題になっているらしい。性に関する彼女の拒否は生理的かつ信念に基づいたもので、おまけに、同僚や校長のスキャンダルを握ることで、身の安泰を図る図太さも持ち合わせています。セックスに対する忌避感は、ミス・ジェンティベルと同じで、それがなにに由来するかは、本人も忘れ去ったかのように、小説の前面には出て来ないのも同じです。理由が分からないだけに奇妙さ不気味さがつのるのも、同じです。しかし、ミス・メイプルは他人には聞かれぬ音楽を聴き取ります。そして、その音楽に誘われて森へ入り性行為と見まがうばかりの何かに身を委ねるのです。ここにあるのも、非常に具体的な、しかし奇妙な彼女の行動です。性行為の代償ともとれるけれど、そんなもので代償できるかと、彼女が考えているかのようでもある。彼女のそれを心置きなくむさぼる姿の、性に対する忌避感とは、いかに対照的なことか。しかし、「フェア・レディ」のヒロイン同様、彼女の快楽も突然の終わりを迎えます。そして「フェア・レディ」ほどではないにしても、やはり小さな飛躍を彼女は遂げて、そうすることで小説も結末を迎えます。この小説の唯一の弱点は、ミス・メイプルがむさぼる音楽と踊りが、イメージされないことですが、舞台や映像で演じられることを要求する題材なのかもしれません。
「フェア・レディ」「ダーク・ミュージック」は、対極にある作品かもしれません。にもかかわらず、ヒロインのいささか偏執的なキャラクターや、展開の仕方、イマジネーションの奇妙さの質など、他の秀作を含めて考えてみても、ボーモントタッチと言えるような共通点を、私は意識してしまいます。
 商業誌デビューとされる1951年の「悪魔が来たりて――」から、第一短編集の上梓まで6年。ボーモントは、わずか数年でプレイボーイなどのスリックマガジンに、短編を売るようになっていました。そして最初の短編集の中の秀作は、ファンタジーであろうがなかろうが、怪奇であろうがなかろうが、奇妙なイマジネーションに裏打ちされていながら、説得力に満ちた描写と展開を積み重ねることで共通していました。ブラッドベリがそうであったように、ボーモントも、やはり、最初からそれだけのキャパシティを持った作家だったのだと、私は考えます。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『土曜日の子ども』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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