せっかくですから、前回リストを作成しておいた、太田博編によるミステリマガジンの幻想と怪奇特集を、読んでおくことにしましょうか。
 幻想と怪奇特集に先立つ、67年6月号の特集/奇妙な子供たちでは、D・H・ローレンスの「木馬を駆る少年」が出色の出来です。貧乏な上流の家庭に生まれ、母親の「もっとお金が要る」という強迫観念の下に、うちが貧乏なのはお父さんに運(ラック)がないからと教えられて育った男の子の物語です。健気な少年は、木馬に跨り、思いつめることで、ある奇跡をもたらします。この号の他の作品のうち「蠅の偶像」「公平でなくっちゃ」は、平凡なクライムストーリでしたが、ナイジェル・ニールの「写真」は、いささか毛色が変わっています。病弱な少年についてのスケッチのような作品とみせて、そして、実際その通りの話なのですが、エンディングの巧みさは、ちょっと真似手がありません。意外な結末とか、斬れ味のあるオチといったものとは別種の、味わいのある終わり方で、この少年の幼い心がなにを恐れていたのかが、くっきりと描き出されています。「写真」は、幻想小説とも怪奇小説とも言えないのでしょうが、子どものころの未知を恐れる心に焦点を当てているという意味で「淋しい場所」に通じる感覚があります。ナイジェル・ニールはテレビの脚本家として著名なイギリスの作家で、日本では、散発的な翻訳を除けば、この時期のミステリマガジン以外で評価や紹介されたのを、私は見たことがありません。「写真」が収められた短編集『トマト・ケイン』は、フィーリング小説集の一巻に入っていますが、これは、イギリスの若手作家に与えられるサマセット・モーム賞を1950年に得ています。
 さて、第一回の幻想と怪奇特集(このときは恐怖・怪奇小説特集と命名されていました)で、オーガスト・ダーレスの「淋しい場所」と、フィッツ=ジェイムズ・オブライエンの「墓を愛した少年」が翻訳され、そこに太田博の主張が込められていたことは、前回書きました。ただし、他の作品は、それほど芳しい出来ではありません。ヘンリイ・カットナー「ねずみ狩り」、ロバート・ブロック「ノーク博士の島」、クラーク・アシュトン・スミス「分裂症の神」と、アーカムハウス系の作家を並べていますが、いずれも、その作家が書きそうなという意味では個性が出ているものの、それ以上のものではありません。ブロックとアシュトン・スミスのアイデアのこねまわし方が凡庸なことに比べて、恐怖をまっしぐらに描くカットナーの方に、むしろ、好感が持てます。
 翌68年8月号の幻想と怪奇特集は、ロード・ダンセイニ「悪魔の契約」が、悪魔との契約のパターンを、ユーモラスでオフビートな話に仕立てていました。勝ち馬が100パーセント当たるのに儲からないという段どりが、とてつもなくおかしくて、さすがはダンセイニでした。同じ勝ち馬を当てる「木馬を駆る少年」と好一対です。もう一編ダーレスの「ダーク・ボーイ」(黒い髪の少年)は、前に触れましたが、「淋しい場所」とこの作品とで、一種のマニフェストとなっています。
 もっとも、このふたつの作品以外は、幻想小説や怪奇小説というよりは、陰鬱なクライムストーリイといった作品が目立ちます。ジェラルド・カーシュの「海への悲しい道」と、ロバート・ブロックの「水際」では、前者の方が腕前が上という気がします。
 69年の8月号は、この号から正式に太田博編集長となります。この回の白眉はジョン・コリアの「葦毛に乗った女」でしょう。クライムストーリイないしは現代的な怪談の作家として認知されていたコリアの、幻想的な奇譚作家としての姿を印象づけたのが、この一編だったと思います。もう一編チャールズ・E・フリッチの「大きな、広い、素晴らしい世界」が、短いながら、ファンタスティックな設定のもたらす異様さを、説明抜きで描くことに終始した迫力のある秀作で、太田博編集長時代らしさ(このらしさの頂点が、71年9月号のショートショート特集です)が出ています。
 アヴラム・デイヴィッドスンの「エスターはどこ?」(クィーン・エステル、おうちはどこさ)は、この作家を取り上げたところで読みましたが、その中では、むしろ幻想性を抑えた作品でしょう。にもかかわらず、怪奇小説としてオーソドックスなマリオン・クロフォードの「血は命の水だから」やブラム・ストーカーの「ドラキュラの客人」などより、まして、アイデア・ストーリイの典型のようなヘンリイ・カットナーの「ヘンショーの吸血鬼」より、このころの幻想と怪奇特集の魅力を伝えているように、私には思えるのです。

 70年の8月号を、私は所持していなくて、読むことが出来ません。いつか手に入れましょう。
 71年の8月号の目玉は、やはり、ジョン・コリアの「ひめやかに甲虫は歩む」でしょう。晩年のコリアが、ゆとりのある筆致で悪魔の話を描いた佳品です。翌年の「愛のヴァリエーション」といい、このころの幻想と怪奇特集のエースが、コリアであったことがお分かりでしょう。また、「メアリー」「ナツメグの味」「眠れる美女」といった秀作群が紹介されたのも、この時期です。
 ローラン・トポールの「静かに! 夢を見ているから」は、自分の夢が周囲の人たちに筒抜けというアイデアが面白く、シリア・フレムリンの「家のなかに何かが」は、平凡なアイデアながら、サスペンスが巧く出ています。しかし、コリアの一編に迫るのは、ロバート・マクニアの「死の扉」です。五大湖に臨む閉鎖的な村。かつて一度だけチャンピオンになったことのあるバスケットボールが、いまでも村人を熱狂させるスポーツでもある。しかし、チャンピオンとなった1947年のチームは、優勝直後に不幸な出来事を迎えたらしい。主人公は地方紙の記者で、バスケットボールチームの取材がてら、今年の決勝戦の観戦に来たのですが、行きのフェリーの中から、村人の奇妙な態度に出会う。
 プレイボーイに掲載され、前年のMWAの短編賞候補となり(受賞はジョー・ゴアズ)、EQMM本国版に再録されたこの短編を、幻想と怪奇特集のひとつとして紹介したのが、まず策略のひとつでしょう。ゴーストストーリイと書かずともゴーストストーリイ以外の何物でもないような描き方をしておいて、氷上の闇の中に、すべてを消し去るかのような結末の、幻想的な小説でした。こうした行き方は、MWA賞の最盛期に、再び、論じることになるでしょう。もちろん、ロバート・マクニアは集中的に読む作家のひとりです。
 そして72年の幻想と怪奇特集はひとつのエポックと考えます。なぜならジョン・コリアの「愛のヴァリエーション」とチャールズ・ボーモントの「ロバータ」という二粒の真珠を含んでいるからです。
「愛のヴァリエーション」は、扶桑社ミステリーの『予期せぬ結末1 ミッドナイト・ブルー』に、「つい先ほど、すぐそばで」の題名で改訳され、初めて日本で単行本に収録されました。コリアお得意の妻殺しの完全犯罪ものと思わせて、主人公のところへやって来たふたりの男を通じて、主人公の住む世界の不思議さを浮かび上がらせるという、凝ったはなれわざです。しかも、想像力の発動する方向と力が奇妙なベクトルを描くところが、凡手ではありません。クライムストーリイというには、犯罪そのものとはズレたところに、イマジネーションの働きがある。渋い秀作です。
 一方の「ロバータ」は、抑圧的な女性ミス・ジェンティルベル(原題です)のもとで、女の子ロバータとして育てられている男の子ロバートの話です。のっけから説明抜きでロバートとロバータを使い分けるだけで、読者に状況を把握させてしまう。しかも、きれいな絹の洋服に裂け目をつくった罰として、ロバータ/ロバートが飼っていたオウムの羽を切り裂いて殺してしまう(ぶちゃしませんよ。傷ならいつか消えるし、忘れることだってできる)。一度裂けたものはつくろえないと言うのです。チャールズ・E・フリッチの「大きな、広い、素晴らしい世界」同様、「ロバータ」も、ロバータ/ロバートの育つ異様な環境を説明ぬきで描くことに終始します。
「愛のヴァリエーション」「ロバータ」に共通するのは、もはや、幻想と怪奇という呼称が相応しいのかどうか怪しいということと、それでも奇妙な想像力で、ひとつの世界を描出しようとする作家の意志です。そして、幻想小説であるのかどうか怪しく、怪奇小説であるのかどうか怪しいのと同じくらい、ミステリかどうかも怪しいものでした。幻想小説・怪奇小説という隣接する小説群を意識することは、同時に、その境界を意識することでもありました。そして、その境界にあって、なお、そのどちらでもありえたり、どちらでもないような、微細な未知の領域を求める。短編ミステリの黄金時代の持つ迫力の一端はそこにありました。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『土曜日の子ども』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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