『血は冷たく流れる』と同時期の他の短編も、少し眺めてみましょうか。
 昨年、コリア、ボーモントに続く、扶桑社文庫の「予期せぬ結末」シリーズの三番手として、ブロックの短編集『予期せぬ結末3 ハリウッドの恐怖』が出ました。ショウビジネス寄りの作品を多く集めた短編集です。前回、ゴーストストーリイを書きながら、あからさまな怪奇小説や恐怖小説から離れていると指摘した作品のいくつかは、この短編集で読みました。そういう意味でも、戦後の洗練された職業作家としてのブロックを重くみた編集でしょう。ここには「奇術師」「ハリウッドの恐怖」「殺人万華鏡」といった50年代末の作品が採られています。
 このうち「殺人万華鏡」はショートショート3編から成る小オムニバスで、第一話がもっとも出来がよく(『殺しのグルメ』にも、これだけが「生きているブレスレット」という題で、独立した作品として入っています)、少々都合のいいところはありますが、オチで読ませるショートショートの典型でしょう。
「奇術師」「ハリウッドの恐怖」といった小説には、まず、戦前の黄金時代におけるハリウッド像が、背景として存在しています。そして、この2編に代表されるように、常軌を逸した魔物たちが、実は、ハリウッドを陰で牛耳っているという発想が、多く見られます。ごく初期から、映画界をあつかうことのあったブロックですが、実際に作品数が増えるのは戦後の話です。現実のハリウッドは、第二次大戦後、様々な社会的条件(ブロックブッキングの解体やテレビの誕生など)から、衰退を余儀なくされます。したがって、いささかアクチュアリティを欠くことになったのは否めません。
『血は冷たく流れる』に入っている「うららかな昼さがりの出来事」は、ハリウッドものであると同時に、前回、初期のころからブロックを特徴づけていると指摘した、ブッキッシュな作風――この場合は『不思議の国のアリス』を中心として、それらの話を夢として売りつけるという怪人が現われる――を、ハリウッドに生かした作品でした。この作品も、同様の弱点を抱えていて、夢を売る怪人に凄みが欠けるのは、ひとつにはハリウッドそのものの神話性が説得力を持たなくなっているからでしょう。
 むしろ、映画人を描いた短編で秀作と言えるのは『予期せぬ結末3 ハリウッドの恐怖』の掉尾を飾った「ムーヴィー・ピープル」でしょう。語り手が場末の映画館――「怪傑ゾロ」をいまでも鑑賞できるこの街唯一の映画館――で知り合った老人は、長年エキストラとしてのみ画面に映ってきた、ハリウッドの夢とは無縁の男でした。彼は他人には探し当てることすら難しい、自分の出演場面を見るために、夜ごと映画館にやって来るのです。スターたちの世界からははじかれながら、しかし、スターたちが存在する画面の中には若き日の自分も、また存在する。語り手は、やがて、老人につきあって、古い映画の中の群集に眼を向けるようになります。彼には若き日に恋した女性がいて、彼女もまたエキストラを続けながらチャンスを待っていたのですが、撮影中の事故のために死んでしまったのでした。ある日、語り手は、老人の指し示す画面に映った彼女を見て、おかしなことに気づきます。彼女が映っていたのは、老人の語る彼女のエキストラデビューよりも古い映画なのでした。この作品には、陰謀の黒幕めいた怪人も出なければ、ハリウッドの栄華をグロテスクな怪奇が背後から支えているといった発想もありません。映画を愛し、しかし、映画に愛されたとは言えなかっただろう男と女が、引き裂かれるように死別したのち、何十年もの歳月を経て、画面を通じてコンタククトをとる。その些細な喜びを実現させた、小さな奇跡を描いたファンタジーでした。

『殺しのグルメ』には、巻末に「道を閉ざす者」という、楽屋落ちめいた一編が収録されています。作家ロバート・ブロックが、精神病院に入っていて、精神科医に自分の作品を分析されて不愉快になっていき……という話です。この作品における、過去の自作への言及の仕方、発想の区分の仕方の、スタティックで凡庸なことには、驚かされます。同時に、ブロックの短編にしばしば見られる、退屈さ単調さの正体が分かったような気がしました。
 同じ短編集に「生き方の問題」という小品があります。60年の作品といいますから、もっとも活躍していたころの作品です。ある奇妙なセールスマンが、次々と訪問販売を重ねていくという、それだけの話です。パターンとしては類似作がいくつもありますが、だからイケナイということにはなりません。しかし、たとえば、スタンリイ・エリンの「ブレッシントン計画」と比べてみてください。いや、エリンでなくてもいい。もっと近い作家、たとえばリチャード・マシスンの「運命のボタン」と比較してみてください。アイデアを発展させる上での、小説としての構え方が、そもそも異なっていることに気づくでしょう。そこでは、基本となるアイデアが過不足なく説明されていますが、困ったことに、登場人物にふりかかった事件や葛藤は、どこにも見当たらないのです。このことは、最初に書いた、イマジネーションの働きに、細かさていねいさが欠けるという欠点にも、相通じるものがあるように思います。
 ロバート・ブロックの怪奇性や恐怖というのは、生首が皿の上に載ったり、身体が焼け爛れたりする直接性であり、簡単に言ってしまえば、一言で終わってしまうようなことでした。しかも、たいていの場合、恐怖の源泉は異界や異常な何者かであって、その異常者に襲われる怖さでしかありません。『サイコ』のノーマン・ベイツには、彼に襲われる怖さの他に、彼のようになってしまう怖さもあったはずですが、その恐怖をブロックの作品から感じることは、ほとんどありません。恐怖にさらされた側の人間に、もう少し眼がいけば、モダン・ホラーになったのかもしれません。L・P・ハートリイの「ポドロ島」を思い出してみてください。
 怪奇小説の作家としては、習い覚えたパターンやクリシェで、小説を肉付けすることが可能だったようですが、怪奇小説から離れてアイデア・ストーリイに活路を見出したときに、そのダイナミズミのなさは、小説を組み立てる作家の意識が、しばしば、結末へ向かうことだけに振り向けられていたのではないか? そうした発想の固さ手軽さは、オチに頼った作品のみならず、たとえば、未来世界の人物描写がていねいな「野牛のさすらう国にて」や、サスペンス小説として成功している「ほくそえむ場所」のような、ロバート・ブロックの作品中でも、佳作と思われる作品においてさえ、見受けられるように思うのです。
 恐怖や怪奇と正面きっては無関係なところで、ロバート・ブロックが「地獄行き列車」「ムーヴィー・ピープル」といった秀作を書いたのは、皮肉なことのようで、実は理由のあることではなかったかというのが、いまの私の考えです。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『土曜日の子ども』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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