第1回EQMM年次コンテストは、1945年6月に公募され、同年10月に応募が締め切られました。以前、年末締め切りと書いたのは、いささか不正確な記述で、以後、毎年10月が締め切りとなりました。賞金は第1席1編に2000ドル、第2席6編に各500ドルと、告知されました。パルプマガジンの稿料の標準が1語1セント。2000ドルといえば、最盛期のフィッツジェラルドが、スリックマガジンに短編を書いたときのギャラに、ほぼ匹敵します。短編ミステリのコンテストとしては、破格の金額だったと言っていいでしょう。第13回コンテストでは、第1席賞金が1500ドルに減額されていましたが、それでも、たいしたものです。このころ、イギリスでは、シャーロック・ホームズのライヴァルたちが覇を競った、雑誌の黄金時代は過去のものとなり、短編ミステリのマーケットは消失していました。1941年の創刊から4年を経過し、EQMMは新作として発表される短編ミステリの質の向上と、その安定が急務でした。
 第1回コンテストの応募総数は838編でした。この数は多いと見るべきなのでしょう。少なくとも、選考の準備期間――つまり締め切りから結果発表まで――に用意した期間が3週間であったことから、クイーンたちが、これほどの応募数を想定していなかったであろうことは、容易に分かります。しかも、実際の選考では、5人の選考委員が推す第1席作品が5作品に割れてしまい、収拾がつかなくなったあげく、その5編以外からダークホースの1編を第1席にしたというのです。割れてしまった5作品は、おそらく、第2席に回ったものと思われますが、結果的には、さらに第3席、第4席が、それぞれ4編ずつ、加えられて、ブリス・オースティンの楽屋落ち的な一編がHonourable Mentionとして追加されました。
 翌年の第2回コンテストでもっとも重要な出来事は、クイーン自ら言うように、処女作特別賞(Special Prizes for First‐Published Stories)が新設できたことでした。すなわち、R・E・ケンダル、ジャック・フィニイ、ハリイ・ケメルマンという、それまでまったくミステリを書いたことのない3人の作家を、コンテストを通じて発掘しました。そして、これを機に、新人の発掘を制度化したのです。ここで注意が必要なのは、この場合の処女作は〈ミステリの〉という限定付きなので、著名な作家でも初めて活字になるミステリ作品を書いた場合は、該当させるという方針でした。ケンダルはその後、活躍する姿を見ませんが、フィニイとケメルマンは押しも押されもしない作家となりました。ケメルマンの投じた「9マイルは遠すぎる」に到っては、彼の代表作ですらあります。このふたりは、第1席を得たH・F・ハードよりも、作家として大成したと言ってもいいでしょう。
 処女作特別賞によって、コンテストから新人を発掘するという方針は、早くも翌年大きな花を咲かせます。スタンリイ・エリンが「特別料理」で衝撃的なデビューを果たしたのです。さらにその翌年、第4回コンテストでも、トマス・フラナガン「北イタリア物語」、スティーヴン・バー「ある囚人の回想」と、前年のエリン同様、第1席作品を凌ごうかという処女作が登場します。その後、第13回までに、この賞を得て、その後日本でも知られた作家となった人に、ヘンリイ・スレッサーやロバート・トゥーイがいます。
 クイーンが新人作家の発掘を重視するようになったのは、第2回コンテストがきっかけですが、そこに脈ありと見て突き進んでいった判断は、歴史に残る好判断だと言っても過言ではありません。第4回コンテストのアンソロジーに付された序文では「探偵小説コンテストに出来る最も重要なことは新人を奨励すること」と言い切っています。以前、新人にあまいのはクイーンの癖と書きましたが、評価の甘さは癖ではあっても、そこに新人を世に出そうとする意識的な働きがあったことも、また確かなことでした。

 第2回のコンテストは、H・F・ハードの「名探偵合衆国大統領」とカーター・ディクスンの「妖魔の森の家」が、最後まで第1席を争い、第1席を譲った「妖魔の森の家」に最高特賞(Special Award of Merit)が与えられました。以後、最高特賞は、第7回のエドガー・パングボーン「歌う杖」、第10回のジョゼフ・ホワイトヒルStay Away from My Mother、第11回のスタンリイ・エリン「ブレッシントン計画」、第12回のB・J・R・ストルパーLilith,Stay Away from the Doorに与えられました。「妖魔の森の家」が第1席を逃したことについては、ミステリの間口を広げようとするクイーンの意向の反映ではないかという推測をしておきました。同様なことは、第3回コンテストにも言えて、第1席を得た「裁きに数字なし」は、他のいずれの第2席作品よりも、伝統的なミステリというカテゴリから逸脱していると見られかねない作品でした。
 第4回コンテストは全31編に賞が与えられ、ここから、コンテストの量的拡大が顕著になります。翌第5回は33編。第6回と第7回が30編。第8回が56編。第9回が53編。第10回が47編。第11回が56編。そして第12回に到って60編を数えます。ここまで来ると、いささか拡大も過ぎていると言わざるをませんが、コンテストにはお祭りの側面もあるので、一概に悪いとも言えないでしょう。 第4回コンテストからは、編者クイーンに余裕が見てとれます。ジョルジュ・シムノンというヴェテランに第1席を与えたのは、私にはその現われに見えます。もちろん、それに値する作品が応募されたという事実が、まず一番にありますが、それまでの3作の第1席作品に見られた、ことさらに新鮮さ目新しさをアピールする必要を、クイーンが感じなくなったのではないでしょうか。序文でも「ディテクティヴ・ストーリイ・ライターズは基本に戻りつつある」と総括しています。考えるに、クイーンはハードボイルミステリの影響を、大きく見積もっていて(また、実際、多くのハードボイルド作品の価値を認め、EQMMに再録しています)、かつ、クライムストーリイへの主流の移行を、必然的なものと思っていたのではないでしょうか。自身が『災厄の町』でストレイトノヴェルへの接近を試みたように。このことは、13回のコンテストを終えて『黄金の13/現代篇』を編んだときに「十三の第一席受賞作のうち、十篇(意外にも高い数)は、実に千差万別の探偵が登場する探偵小説である」と、まえがきに書いた「意外にも高い数」という表現にも現われています。
 もちろん、このことは、オールドスタイルのディテクションの小説が、そのままの形で生き残ることを意味はしませんでした。むしろ、連載途中で指摘したように、こののち、シャーロット・アームストロングの「敵」とトマス・フラナガンの「アデスタを吹く冷たい風」の連続受賞、スタンリイ・エリンの「決断の時」とA・H・Zカー「黒い小猫」の連続受賞が、それぞれ、パズルストーリイとクライムストーリイの可能性と標準を示したことの意味と重要性は、なにものにも代えがたい、EQMMコンテストの貢献と言えます。謎解きミステリの第一人者クイーンが(おそらくは、自身にとって、いささか悲観的に)予想したミステリの未来像は、良い意味で裏切られ、短編ミステリは新しい地平を拓いたのです。
 第5回コンテストの入賞作を収めたThe Queen’s Awards Series5の序文で、クイーンは短編ミステリのルネッサンスはここに成った、新しい黄金時代に入ったと、高らかに宣言します。これは、その後の受賞作と、そのインパクトを知る前に書かれたという意味で、おそろしいほど予見的なことでした。編集者クイーンの未来を見通し信じる力こそが、短編ミステリの歴史の中にEQMMコンテストが刻んだ貢献の原動力であったというのが、私のEQMMコンテストについての総括になります。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社