第12回と第13回コンテストの入賞作品から、いくつか落穂ひろいをしておきましょう。
第12回コンテストのオナーロールに入った、ミリアム・アレン・ディフォードの「ひとり歩き」は、地味な作品ながら、サスペンスに富んだ、しっかりした小説で、読み応えがあります。主人公のラーセンは、仕事と妻に倦んでいて、その日、通勤に使うバスが遅れたことをきっかけに、仮病を使って会社を休み、職場とは反対方向のバスに乗ってしまいます。バレれば、上司はもちろん妻からも、うんざりするような非難をあびること必至ですが、それだけに解放感もある。妻や会社というわずらわしい軛から逃れて、その日一日ひとり歩きを満喫します。ところが、夕方になって、彼は少女が自動車に連れ込まれ、拉致されるのを目撃します。あっという間の出来事でした。すぐに通報することを考えますが、そうした場合、なぜ、そんなところにいたのか釈明することが、彼には出来ません。警察はともかく、会社や妻に対して。彼は心のうちに様々な口実をもうけ、口をぬぐって帰宅します。事件は新聞で報じられ、被害者の名前を知る。心中の穏やかさを欠いていくうちに、犯人逮捕をやはり新聞で知ります。ところが、報道された犯人の写真は、彼が目撃した人間とは、まったく異なっていたのでした。
 主人公ひとりが知っている冤罪事件が進むにつれて、彼の心はかき乱され、それ以外のことが考えられなくなる。その経過をみごとなディテイルの積み重ねで描いて、サスペンスが緩みません。その後の展開には意外なところはなく、予想される悲劇に向かって一直線に進み、主人公はそれを避けることが出来ず、読者もまた、それを避けることは出来ません。一散に破局へ向かって走ったのちに、最後のパラグラフで、人が社会から一瞬離脱して、無防備なひとり歩きをしたところ狙って、陥穽がそれを待っているという恐怖が、別の側面から読者を襲います。ここに到って、この短編が、みごとに企まれた小説であることが、了解されるのです。この作品は、ディフォードの短編集の巻頭を飾ったそうです。
 マシュウ・ガントの「飢えた眼つき」も、好短編です。ハイウェイが迂回工事中のため、ろくに客の来ない砂漠で、宿屋件自動車修理工場を細々とやっている主人公には、若くて男好きのする妻がいて、そこに羽振り良さそうな男がやって来る。そう。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を、パパダキスの側から描いたような短編です。虚虚実実の駆け引きが、宿屋の主人の一人称で手際よく描かれます。マシュウ・ガントは以前「第一前哨」という奇妙な短編を紹介しましたが、あなどれない実力の持ち主です。
ヘンリイ・スレッサーの「権威の象徴」は、犯罪とも言えないような小さな犯罪を描いて、ユーモラスななかに、ある個人像を的確に描いた小品です。主人公はひょんなことから聴診器を手に入れ、それをブラ下げて病院内を歩くだけで、医師として人から敬意を表してもらえるという経験をします。医学的専門的な会話は極力避け、しかし、患者を元気づけるような、いかにも医師らしい会話をしてみせる。ひとつの権威の象徴を身にまとうことで、些細でいじましい優越感のようなものに浸れるのです。初めはおそるおそる、次第に大胆に、主人公は医師に成りすます遊びを続けます。しかし、そんな小細工が、いつまでも露見しないわけがないぞ。と思いながら読んでいった読者に、結末で、さらに頬をゆるませるところに、スレッサーの技の冴えがあります。しゃれた喜劇を観る趣がありました。これを、第10回コンテストで、やはりオナーロールに入った「白いマスクの男」と比べてみましょう。医師のふりをして手術室に入ることは、案外簡単だというアイデアを、手術室で殺人を犯すという形で謎解きに仕組んだ退屈な作品でした。そうしたアプローチの仕方が閉塞したのち、「権威の象徴」のような行き方もあると気づいたところに、このころの短編ミステリの進歩はあったと言えます。
 第13回コンテストの選外作にはパトリシア・ハイスミスの名も見えます。「ミセス・アフトンの嘆き」は、夫の症状について、精神分析医のバウァのもとに通うミセス・アフトンの物語でした。平凡なオチのアイデアストーリイでしたが、オチのつけ方(最後の台詞)に、ハイスミスのセンスが出ていました。




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