文壇バーのミューズで珊瑚朗先生やミーコママたちが
楽しんでいるのも、やはり一種の物語遊びなんじゃないかと思っています。

気鋭の作家が初めてミステリに挑んだ、
安楽椅子探偵もの連作短編集。
(08年6月刊『シチュエーションパズルの攻防』)

竹内真 makoto TAKEUCHI

 

 辻堂珊瑚朗という売れっ子作家が主人公の、文壇バーを舞台にした安楽椅子探偵物のミステリー。――自分で考えた設定にゃあ違いないんですが、〈ミステリーズ!〉での連載開始前には本当に書けるんだろうかと不安になったのを覚えています。
 なにしろ売れっ子作家になった経験はないし、文壇バーなんて人の奢りで何度か覗いたことがある程度だし、安楽椅子探偵物のミステリーについては書いたことがないどころかろくに読んだこともありませんでした。芦原すなおさんの『ミミズクとオリーブ』シリーズの新作に解説を書かせてもらった縁で実現した企画でしたが、さて他の安楽椅子物を何か読んだっけなと考えても全く思い出せなかったほどです。
 とことん自分と縁のない分野に足を踏み入れようとしてるんだなあと思うと自分でも呆れてしまいましたが、それもまた面白かろうと思うことにしました。なにしろ、いつの間にやら僕の小説にくっつくようになっていた「爽やかな青春小説」というレッテルについて、僕自身はずっと違和感を覚えていたんです。この際まるで未知のジャンルのものを書いておいた方がバランスがとれていいかもしれないなどと考えておりました。
 もちろん自分の作品を爽やかな青春小説と評価していただくのはありがたいことです。年齢的に若い登場人物が多いから青春小説と分類されるんでしょうし、わざわざ嫌なことは書きたくないし基本的にハッピーエンドを目指すもんだから、結果的に爽やかと思ってもらえるのかなーとも思います。だけど自分自身を省みてみると爽やかだったり青春してたりする要素は皆無な気がして仕方ありません。それに1970年代の学園ドラマならいざしらず、今時「青春」って言葉を堂々と口にするのって気恥ずかしいもんですよね。これは偏見かもしれないけれど、青春というと「柔道着の上に剣道の袴をつけて両脇にラグビーボールとサッカーボールを抱えて砂浜を走り、夕日に向かってバカヤローと叫ぶ」みたいなイメージがありまして……バカはお前だよと思わずにはおれず、回り回って僕自身のバカさ加減と向かい合うような気がして抵抗を覚える言葉だったりします。
 小説や映画やドラマのジャンル用語として厳然と存在してるのは分かりますが、自分では極力使わないようにしている言葉ですし、小説の中で青春というものを描こうとしてるつもりもありません。若い登場人物が作中で成長していく様を書くことは多いし、それが青春なんだーと熱く言われるとそれもそうですねと引き下がるしかないんですが、僕が重きを置いているのは時の流れであったりその中で変化していく人々の姿であったりするんだろうと考えています。たまたま人生経験が浅いから若い登場人物ばかりを書くことになり、その後は同じ路線の依頼ばかりが舞い込むようになったってことなんじゃないかと思うんですけども。
 で、安楽椅子探偵なわけです。主人公は六十代のスケベな大物作家にしたわけです。これなら青春じゃあないだろうと思いつつ、語り手を二十歳の大学生にしちゃうあたりが僕の甘さなのかもしれませんが、この大学生がまっとうな社会人になるあたりまで書いていきたいとも思っています。連作の一作ごとに謎と推理について書いていきつつ、辻堂珊瑚朗という作家の影響で一人の青年が変わっていく様についても描いていくというのがシリーズ全体の構想でもあります。
 そこで、辻堂珊瑚朗は名探偵である以前に物語の達人であるという設定にしました。単に売れっ子ミステリー作家というだけじゃなく、日頃の言動自体が大いなる物語性の内にあるというキャラクターを造形してみたわけです。その物語力とでもいうべき背景によって、多少推理が外れようが何だろうが力ずくで押し通してしまえるなら、推理と謎解きだけにはとどまらない面白さが描けるんじゃないかと考えました。
 そんな考えが浮かんだのは、辻堂珊瑚朗のモデルに想定していた某大作家の人物像によるところも大きいんですが、自作に対する自己分析も影響しています。青春小説というレッテルに違和感を抱く一方で、僕は自分の小説について「物語についての物語」という要素が大きいと考えていたからです。
 メタフィクション的要素、と言ってしまうと語弊がありそうですが、『じーさん武勇伝』(講談社文庫)の終盤では語り手の「僕」が一連の出来事を物語にしようと思い立ちます。『粗忽拳銃』(集英社文庫)は落語家の流々亭天馬が本物の拳銃を拾うという事件の中で自分の表現を模索する話ですし、自主映画作家の時村はその拳銃について半フィクション映画を撮り、ライターの高杉可奈は彼らの姿と一連の出来事を文章にしようと決意します。『カレーライフ』(集英社文庫)では主人公ケンスケの従姉ヒカリがアメリカで小説の勉強をしている設定で、カレーにまつわる小説の中にケンスケを登場させたりしています。
 全ての作品で意図していたわけでもないんですが、どれについても「ラストシーンの後、登場人物の一人がその物語を書いた」という見方ができるんですね。もちろんその物語を書いたのは作者である竹内真なわけだけど、いったんそれを棚に上げると、物語の終わりが始まりに繋がるわけです。『じーさん武勇伝』は語り手の「僕」が書いた物語というのは分かりやすい構造ですが、『粗忽拳銃』は高杉可奈が三人称で書いた物語、そして『カレーライフ』はヒカリがケンスケの視点を借りて書いた物語と捉えることもできます。『自転車少年記』(新潮社)の場合はさらにはっきりしていて、ラストシーンで作家になることを志した昇平が、後になって書いたのが『自転車少年記 あの風の中へ』(新潮文庫)ということになっています。
 そんな風に物語の終わりが始まりとなってその作品自身を包含するような形のことを、自分ではウロボロス構造と呼んでいます。蛇や竜が自分の尻尾を飲み込んでる図形をイメージしてのことですが――このあとがきを書くために辞書でその言葉を確認してみたところ、この図には「完全と無限の象徴」なんて意味合いがあると説明されていて驚きました。きっと僕は、その作品が「どうしてその物語が書かれるにいたったかの物語」になっていることにある種の完全性を感じ、「物語の終わった時点から登場人物がその物語を書き始める」ってことにある種の永続性と無限性を感じているんでしょうね。きっと無意識のうちにそういう物語に憧れていたんじゃないかと思います。
 だから辻堂珊瑚朗を物語の達人に設定したんでしょうし、本書に『シチュエーションパズルの攻防』というタイトルを選んだのもそのためです。――謎めいた状況に関する問答を繰り返して推理を展開していくのがシチュエーションパズルという遊びですが、この遊びを通して僕たちは謎解きを楽しむのと同時に物語を楽しんでいるような気がするんです。そして、文壇バーのミューズで珊瑚朗先生やミーコママたちが楽しんでいるのも、やはり一種の物語遊びなんじゃないかと思っています。
 珊瑚朗先生のシリーズの連載が始まった頃から、面白いシチュエーションパズルの問題を見つけたり思いついたりすると小型ノートに書き留めるのが習慣になりました。「水平思考パズル」とか「ウミガメのスープ」とかの別名でも知られるこの遊びは、一人で楽しむよりは誰かと一緒に遊ぶ方が面白いと知ったからです。――日頃から友人知己との会話の中でも遊んでますが、いつかまた、小説を通して読者と共に楽しむことができたらと願っています。

(2008年6月)

竹内真(たけうち・まこと)
1971年新潟県生まれ。慶應義塾大学卒。95年に三田文学新人賞、98年「神楽坂ファミリー」で小説現代新人賞、99年『粗忽拳銃』で第12回小説すばる新人賞をそれぞれ受賞。主な著作は『じーさん武勇伝』『自転車少年記』『カレーライフ』『風に桜の舞う道で』『ワンダー・ドッグ』『ビールボーイズ』など。