ここだけのあとがき
2008.07.07
高井忍『漂流巌流島』[2008年7月]
また変わっていただろう。実に幸運な作品だった。
綾辻行人・有栖川有栖両氏に絶賛された第2回ミステリーズ!新人賞
受賞作を含む、挑戦的デビュー作品集。
(08年7月刊『漂流巌流島』)
高井忍 shinobu TAKAI
校正に際してインターネット上で必要な情報を確認していたところ、唖然となった事実があるのでここに書く。
Wikipediaにおける宮本武蔵の記事が恐ろしく充実しているのである。
中でも分量を割いているのが、京都における吉岡一門との決闘、それからいわゆる巌流島の決闘の二つで、諸説紛々で実像の定かでないこれらの決闘のその諸説が網羅されている。拙作「漂流巌流島」の執筆は平成16年末だから既に4年近くも以前だが、当時はWikipediaの記事もそれほどの分量でなく、内容も通りいっぺんのものだったように覚えている。
これはWikipediaに限定した事情ではない。試みに検索をかけると、巌流島の決闘に関する諸文献の記事をずらりと並べ、比較、検討、論考を試みているサイトが多数見つかる。これも以前はそんなに数がなかったと思う。この4年間にネット上での武蔵や巌流島の決闘をめぐる情報量は桁違いに増加した。執筆当時とは隔世の感が強い。
だから、筆者が初めて目にする史料も多く、例えば『木刀之記』という文献には、船島で武蔵と交戦した兵法者の名前は渡辺小次郎、小早川秀秋の遺臣で決闘当時26歳、決闘の日付は慶長13年6月29日とあるらしい。これなどはどう工夫しても「漂流巌流島」で採用した真相に割り込ませることはかなわない。難儀な話である。
振り返って考えると、「漂流巌流島」は、この題材にこの解釈で評価されるための下限ぎりぎりのタイミングで書くことができたといえるかもしれない。3年遅く執筆していたら評価はまた変わっていただろう。実に幸運な作品だった。拙作を高く評価してくだされた審査員の先生方並びに東京創元社の皆さま方に改めて感謝の意を表したい。
あとがきに代えて、収録作についての解説を執筆順に。
「漂流巌流島」
題材は巌流島の決闘。
歴史ミステリーの傑作と望外の評価を授かり、第2回ミステリーズ!新人賞を射止めた本作なのだが、作者本人には歴史の謎を解こうなどという大それた意図はまったくなく、むしろ執筆の端緒は逆さまで、「このシチュエーションなら××××トリックが成り立つな」という思いつきから書き始めた。トリック本位の小説といっていい。
従って文献類は××××トリックを成り立たせるために相当恣意的に扱っている。読後に各々で史料に当たって謎解きを検証するもよし、逆に事前に予習してから間違い探しのつもりで臨まれるのも一興と思う。
何にせよ、宮本武蔵やその他の剣豪たちに関心を持つ方が少しでも増えるようなら、筆者としては喜ばしい限りである。
「彷徨鍵屋ノ辻」
題材は、主役の渡辺数馬ではなく助太刀の荒木又右衛門で有名な鍵屋ノ辻の仇討ち。
当初、筆者が考えていたのは仇討ちの黒幕が誰なのかという話だった。伊賀上野の鍵屋ノ辻に待ち伏せて仇方一行を強襲した仇討ちは、御都合主義といいたくなるくらい討手方に都合よく運び過ぎている。仇討ちをお膳立てした黒幕が存在したのではないか。動機もあって、なおかつ仇討ちをお膳立てできる立場の人物を考えると、一人、うってつけの人物がいる。地味過ぎて誰からも喜ばれそうにないのが難点だが、この人なら黒幕の条件を満たしている。普段ならここで書き始めているところだが、あいにくと書かなくてはいけないのは歴史の謎解きミステリー、きちんと裏づけを取っておかないといけないだろうと当時の記録に当たってみた。止めておけばよかった。仇討ちの公式記録にとんでもない矛盾が見つかったのである。
何しろ公式記録に書いてある事柄なのだから、後世の創作並みには扱えない。明らかな矛盾を放っておいて謎解きを進めるわけにはいかない。さあ、困った。
かくして史料の上の矛盾を解消する必要に迫られ、どうにかこうにかいちおうの説明を得ることはできたのだが、おかげで他の三編を大きく上まわる分量になってしまった。現実に起こった事件を、あくまで現実の史料にもとづいて推理を組み立てていくことの難しさをつくづく思い知らされた次第である。
いまにして考えると、仇討ちの公式記録を読まなかったことにして当初の予定のまま書き進めればよかったという気がしないでもない。
「亡霊忠臣蔵」
題材は赤穂事件。忠臣蔵のモデルになった事件と説明するのが分かりやすい。
書く側からすると、一番苦しんだ作品がこれである。有名過ぎるくらいに有名な赤穂事件ではあるけれども、歴史の謎解きの題材として考えた場合、二つの大きな問題がある。一つはフィクションのイメージが強過ぎること。もう一つは、フィクションの粉飾を排除してしまえば、赤穂事件の経緯にはどこといって矛盾や不審な点が見当たらないということである。史実といって語弊があるなら、同時代の記録に書いてあるままの事件で不都合ないのだ。浅野内匠頭の刃傷の原因にしても、公式イベントのスタッフに駆り出された大名や旗本が職務上のトラブルから刃傷に及ぶことは珍しいことでない。増上寺で内藤忠勝は永井尚長を殺しているし、寛永寺で前田利昌は織田秀親を殺している。浅野の刃傷が怪しいというなら、内藤や前田の刃傷も疑わなくては公正さを欠く。
普通のフィクションなら、幕府なり、朝廷なりの陰謀とでも仕立てておけば面白くなるのだろうが、歴史の謎解きを標榜する以上は根拠のない創作を並べるわけにいかない。謎解きをしようにも、その謎が見当たらない! これには困った。
どうしたものかと頭を抱えるうちに、ヘンな連想が働いた。苦しまぎれの思いつきとはいえ、よくこんなヘンなことを考えたと書いた本人が呆れている。どうか作者苦心の謎解き(のようなもの)にお付き合いいただきたい。
「慟哭新選組」
題材は池田屋事件。
幕末最大の誤解は、徳川幕府打倒のスローガン“尊皇攘夷”だろうと思う。
尊皇は天皇中心主義、攘夷は外国排斥の思想だが、尊皇攘夷のイデオロギーそのものは直接倒幕の思想とは結びついていない。当時の最大の尊皇攘夷論者は孝明天皇である。この人は倒幕どころか、幕府との協調路線を支持していた。尊皇攘夷論者の孝明天皇が最も信頼したのは一会桑――一橋慶喜、松平容保、松平定敬のトリオである。彼らはいずれも佐幕の最有力の要人、孝明天皇崩御後には官軍から朝敵として扱われた。
池田屋事件の主役新選組は、その成立の経緯からいっても、尊皇攘夷をイデオロギーとする集団だった。市中取り締まりの職務は不本意であると他でもなく局長の近藤勇が公言している。しかし、幕府に攘夷を実行する意思は見られない。隊内の不平不満がピークに達したそのさなかに、池田屋事件が起きた。
池田屋事件はどう解釈しても新選組の独断専行で、嫌々職務をこなしたという風にはとても見えない。当時の新選組を取り巻く事情を考えると、これは何とも不可解な行為ではないか。だが、一方で過激派の取り締まりが新選組の職務であるのは間違いない。当たり前に職務を遂行したという見方に立てば、池田屋事件は謎でも何でもない。当然の行動である。どちらの見方を支持するか、その判断は読者諸氏にお委ねする。
なお、新選組関連の書籍として佐藤文明著『未完の「多摩共和国」』を挙げておきたい。新選組のバックボーンを論じた労作である。これを執筆前に読んでいたとしたら、「慟哭新選組」はずいぶん変わっていただろうと思う。
最後に。
東京創元社の皆さま。皆さまのご助力の甲斐あってこうして『漂流巌流島』は出版することを得ました。この場をお借りして、厚くお礼を申し上げ、同時に多大な御迷惑とお世話をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。
読者の皆さま。たいへん長らくお待たせいたしました。この場をお借りしてお詫び申し上げます。
では、またの機会があれば。
■ 高井忍(たかい・しのぶ)
1975年京都府生まれ。立命館大学産業社会学部卒業。2005年、綾辻行人・有栖川有栖両氏に絶賛された短編「漂流巌流島」で第2回ミステリーズ!新人賞を受賞。同短編を収録した本書『漂流巌流島』がデビュー作となる。
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