ここだけのあとがき

2011.06.06

フェルディナント・フォン・シーラッハ/酒寄進一訳『犯罪』 ここだけの訳者あとがき【前編】(1/2)[2011年6月]

弁護士が数々の“異様な犯罪”を語る、
欧米読書界を驚嘆せしめた傑作!

(11年6月刊『犯罪』)

酒寄進一 shinichi SAKAYORI

 

 シーラッハさんと過ごしたコーヒータイム

「先生、ごめんなさい。地下鉄で事件があって、動きが取れなくなっちゃったんです」
「一人でまたあのあたりへ行っていたのか? 危ないから行っちゃいけないっていっておいたのに」
「まだ明るいうちだから大丈夫だと思ったんです。警官が何人も来て、なんだか人が死んじゃったような」

 2010年の11月、学生を7人連れてベルリンにフィールドワークに行っていたとき、一人の女子学生とこんな会話をした。時間は午後の6時頃。ドイツではこの時期すでに日が暮れている。その日はもう見学やイベントの予定はなく、ぼくはシーラッハさんに会う予定の翌日に備えて、彼のインタビュー記事(「ディ・ツァイト紙」2010年3月25日掲載)を読み直そうとしているところだった。

 それから二時間ほどしてシーラッハさんからメールがあった。
「急に殺人事件の弁護をすることになり、明日の午前中時間が取れなくなりました」
 そう、デビュー作の連作短編集『犯罪』で2009年にドイツの読書界を震撼させたシーラッハさんの本業は刑事事件専門の弁護士なのだ。しかも元東ドイツ政治局員シャボウスキーや、ドイツのCIAに相当するドイツ連邦情報局の元工作員ユレツコなどの弁護人をつとめるなど、歴史的訴訟に関わったドイツでも屈指の刑事弁護人だ。

 そして『犯罪』は、彼が実際に弁護した事件を基にしているというのだから俄然興味をそそられる。第一話「フェーナー氏」を読んで、ぼくもガツンと斧で頭を割られたような衝撃を受けた。知り合いのポルトガル人翻訳家が、先にこの短編集を読んでいて、「鉈で断ち割ったような文体」と評しているが、まさに当を得た表現だ。それぞれの事件の当事者の内面に入って、とことん弁護したからこそ見えてくる人間の闇が、無駄をそぎ落とした文章の行間からふつふつとあふれだしてくる。

 もちろん弁護士には守秘義務があるので、短編集で言及される人名も場所も改変されている。第二話「タナタ氏の茶碗」(※)で家宝の茶碗を盗まれたタナタ氏も本当のモデルはもちろん「タナタ」ではない。したがって、のちに東京の美術館に収められたという長治郎の黒い楽焼の茶碗も……。はじめてシーラッハさんに会ったとき、東京の某美術館に実際、黒い茶碗が収蔵されていて、そこから逆にたどると「数百年続く旧家」がある実在する財閥と読めることを伝えると、その偶然の一致にシーラッハさん自身驚いていた。

 偶然の一致といえば、すでにみなさんお気づきだろうが、女子学生が遭遇した事件は、シーラッハさんが急遽弁護することになった事件と同一のものだった。そのことを知ったシーラッハさんも驚いて、事件のあらましをすこし話してくれた。これがまた興味深いもので……。もちろんこの地下鉄殺人事件についても、またタナタ氏の本当のモデルについても、ここで明かすことはできない。シーラッハさんは昨年、第二短編集Schuld(『罪』、2012年小社より刊行予定)を発表していて、これからも執筆を続けるというので、もしかしたらこの地下鉄殺人事件もいつか形を変えて物語になるかもしれない。

 さて、話を2010年11月にもどそう。待ち合わせがいったんキャンセルになったあと、何回かメールのやりとりをして、なんとかその日の夕方に一時間ほど時間を取ってもらえることになった。これからそのときのことをみなさんにお話ししたい。

 シーラッハさんが待ち合わせに指定したのは、ベルリンの繁華街からすこし入った閑静な住宅街に店を構えるイタリアレストラン〈M〉だった。11月だというのに入口の左右に白いテーブルクロスをかけた席がひとつずつあり、黒と赤が基調のおしゃれなドアがそこにあった。ドアを入ると、通路を挟んで左右に五つか六つくらいの席しかない小さなレストランだ。

 約束の時間の十分前に着いたぼくは、ちょうど客を送って玄関から出てきたウェイターに声をかけた。
「あの、シーラッハさんと待ち合わせをしているんですが」
「ああ、もう来ていらっしゃいますよ」
 ウェイターが開けたドアを入ると、すぐ右手にある二人がけの席にシーラッハさんはいた。

 絶対に聞いておこうと用意していた質問事項は短編集のタイトル順にかなりの数になっていた。持ち時間は一時間、エスプレッソとシーラッハさんお奨めの洋梨のタルトが出てきたところで、ちょうどぼくの自己紹介も済み、本題に入った。

 ここでは「フェーナー氏」のなかに出てくる einsam という単語のことだけ触れておこう。上記のインタビュー記事でも、「人になじめない感覚」に関わってシーラッハさんが使っている単語のひとつである。「孤独の」とか「寂しい」という意味の単語だが、フェーナー氏が愛する人と結婚し、ハネムーン中に感じるにしてはずいぶん奇異な感覚だと思い、尋ねてみた。

 そのときのシーラッハさんの返事は、インタビュー記事のこんな箇所とほぼそっくりの内容だった。
「私の仕事は一種の救済です。私はいつも人になじめませんでした。家では家族に、そしてもちろん外でも。子どものとき、私は友だちの家にめったに泊まることがありませんでした。自分はその仲間ではないと思ったからです。(中略)ずっとのちになって、刑事弁護人になって数年が過ぎたとき、そういう感覚を味わっているのが自分だけではないとようやくわかったのです。依頼人が弁護人を訪ねるとき、たいていの場合、その人の人格を形成する文化も権利も秩序もすべてが崩壊し、奈落の底の一歩手前にいるものです。彼らが弁護士に普段よりも多くのことを語るのはおそらくそのせいでしょう。彼らの言葉によく耳を傾けていると、多くの人が同じ感情を共有していることがわかります。なじめないという感覚、疎外感はもちろん話すことで減るものではありません。しかし私がひとりぼっちではないということを知ったことで、私はほっとしたのです」
 弁護するということが弁護される人を救うだけでなく、弁護する側をも救っていたというのだ。ぼくは二杯目のエスプレッソを飲み干しながら唸った。

 裁判制度では当然、弁護する側と弁護される側のあいだにはっきりとした境界線が引かれている。この約束事がじつは虚構でしかないということをまざまざと見せつけられた気がしたからだ。シーラッハさんにいわせると、裁く側と裁かれる側、加害者と被害者のあいだにも、つきつめると何か通底する思いがあり、そこをつきつめるとその境界線は限りなくあいまいになるという。これを小説に置き換えると、書く側と書かれる側、あるいは読む側と読まれる側という話にもなる。どうやら両者が暗黙の了解にしているそうした垣根を取り払ったところで、シーラッハさんは「犯罪」という不条理に新たな光を当てたのだ。ぼくには、シーラッハさんがフランツ・カフカの再来のようにすら思えた。

 シーラッハさんはインタビュー記事で、アリストテレスの言葉を引用してこんなことも語っている。 「アリストテレスにすばらしい言葉があります。『すべての学問はつねに驚きからはじまる。物事はあるがままにそこにある』と。あなたには何も変えることなどできないのです。正しいやり方は謙虚に関わることだとわたしは思っています。(中略)悲観的か楽観的か、それは人が何を期待しているかによります。私はもう16年間刑事弁護人として働いてきました。十分多くの死者を見ました。私はもう何も期待していません。いまが続くことに満足しているのです。私たちはすばらしい時代に生きています。ヨーロッパには戦争もありませんし、おしゃれなイタリアレストランで食事もできます。私たち以前のほとんどの世代よりも恵まれているじゃないですか。とっても良い時代です」

 「期待」という言葉は「予断」と言い換えることもできるだろう。「予断」には「物語」がつきものだ。予断を持つ人の「期待の地平」に立った「物語」が。あらかじめ物語を用意せず、物事と真摯に向き合うシーラッハさんの姿勢に、ぼくは感動すら覚えた。



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