一ミステリ作家として一歩を踏み出すときにも、
乱歩と同じことをしたいと願った。
幻想の現実化=現実の幻想化。

夜ごと“魔法のお店”で繰り広げられる、安楽椅子探偵奇談。
(08年1月刊『奇談蒐集家』)

太田忠司 tadashi OHTA

 

 江戸川乱歩の初期短編のいくつか――『二銭銅貨』『赤い部屋』『人間椅子』など――には、同じような苦い読後感がある。
 冒頭から尋常ならざる雰囲気で物語が語られ、読者をその異様な世界へと誘う。物語は次第に怪異で奇抜な様相を呈し、遂には驚愕すべきクライマックスを迎える。
 しかし次の瞬間、思っても見なかったどんでん返しが読者を待っている。それまで語られてきた不可思議な物語は一瞬にして現実の出来事へと還元させられ、『赤い部屋』のラストの一文を借りるなら「どこの隅を探してみても、もはや、夢も幻も、影さえとどめていないのであった」という状態に置かれることとなる。
 本格ミステリとはこの世ならぬ出来事を論理の力によってこの世の出来事に落とし込む小説形式である、とも言える。ならば乱歩のこの趣向は本格として「あり」なのだろう。だが乱歩独特の語り口による異様な世界に浸っていた読者にとっては、いきなり手品のネタを明かされたような、お化け屋敷に百ワットの照明を灯されたような、そんな興醒め感を覚えさせるものでもある。
 本格ミステリの読者であると同時に怪奇幻想小説の愛読者でもあった僕にとっても、その遣り口は実際のところ、苦いものだった。そのままあっちの世界にいさせてくれてもいいじゃないか、と初読のときは思ったのだ。
 なぜ乱歩が作品の終わりをこのような形にしてしまったのか。まだミステリの世界に入ったばかりだった十代の僕は、ずっとそのことを疑問に思っていた。日本に本格探偵小説を根付かせるため、あえて幻想が理知に敗北する物語を書いたのか、それとも読者をただ煙に巻きたかっただけなのか。
 しかし「現し世は夢、夜の夢ことまこと」と言い切った乱歩が、『押絵と旅する男』という至高の幻想小説を作り上げた乱歩が、そんなことをするだろうか。
 その疑問に自分なりの解答を得たのは、作品を何度も読み直した後のことだった。
 乱歩は二銭銅貨に隠された暗号を、椅子の中に潜む男を、偶然を利用して次々と殺人を重ねていく男を、すべてありふれた現実の世界に引きずり込んでしまった。しかしそれを逆の方向から見れば、幻想の世界が現実の世界と直結させられたということでもあるのだ。
 つまり、乱歩は幻想と現実の統一を試みたのだ。もっと言うなら、現実の中に幻想を忍び込ませ、現実の破壊を目論んだのだ。
 これを牽強付会の論と言われても、反論はしない。しかしその当時の僕は、これこそが真実だと思った。そして乱歩こそが幻影の城主である理由、他の誰でもない存在である理由を知った、と思った。
 以来、一乱歩読者としての僕は、一ミステリ作家として一歩を踏み出すときにも、同じことをしたいと願った。
 幻想の現実化=現実の幻想化。

 『奇談蒐集家』は、その想いが結実したものだ。
 毎回、語り手が持ち込む奇談は、ひとりの人物によって現実へと解体され、無残な姿を晒すこととなる。
 そこだけ取り出せば、奇談とはミステリを成立させるための道具立てでしかない。
 しかし僕の思惑は、抱え込んでいた奇談を白茶けた現実へと変えられてしまった人々の心の中に生まれた空虚、その暗黒の中にある。
 書き下ろした最終話において、暗黒を抱え込まされた人々のその後について触れた。彼らの変化は自らの中にあらたな幻想を抱え込んだ姿でもある。頼りなくも強固な現実を生きながら、彼らの中には新たな幻想、あらたな奇談の胚芽が宿っているのだ。
 そして奇談蒐集家と、その助手――奇談を現実へと解体し続けてきた彼らも、最後には自らが奇談となる。いや、彼らはそもそも現実ではなく、奇談の中にこそ居場所を見つけるべき存在だったのだ。
 僕の希望としては本作の読後、乱歩の諸作品を読んだときと同じように「別にこんな終わりかたにしなくてもいいのになあ」と感じてもらえれば、ある意味成功だったりする。この作品では読後の苦さをこそ味わってもらいたいのだ。

(2008年2月)

太田忠司(おおた・ただし)
1959年愛知県生まれ。名古屋工業大学卒業。81年、「帰郷」が「星新一ショートショート・コンテスト」で優秀作に選ばれる。『僕の殺人』に始まる〈殺人三部作〉などで新本格の旗手として活躍。2004年発表の『黄金蝶ひとり』で第21回うつのみやこども賞受賞。〈狩野俊介〉〈霞田兄妹〉〈探偵・藤森涼子〉〈新宿少年探偵団〉など多くのシリーズ作品ほか、『ミステリなふたり』『月読』『甘栗と金貨とエルム』『五つの鍵の物語』など著作多数。