僕も、あの18歳の冬、
プラス、マイナスとまではいきませんが、
どこかで二つに分かれてしまったような気もします。

25項目のリストで人格を分割した青年のふしぎな探偵行。
(08年3月刊『サトシ・マイナス』)

早瀬乱 ran HAYASE

 

 もはや四分の一世紀も昔となった1970年代末、高校生だった僕は美術部に属していて、部室で多くの時間を過ごしていました。
 木造校舎の一階、継ぎはぎだらけの廊下を歩くと、使われなくなった一列の教室が、各科の準備室や資料室に姿を変えて並んでいます。廊下側の埃だらけの窓のそれぞれには、中の棚や段ボール箱の濃い灰色の影が延々と映っていて、その一番奥に、やはり廃教室を改造した、美術部のアトリエがありました。もう20年近く再訪することなく時が過ぎましたが、校舎自体、とっくに取り壊されてしまったと聞いています。
 高校は大阪の阿倍野区にあった、ミッション系の私立高校でした。高三になると、受験体制に入り、授業が選択制(単位制)となって、それぞれ自分の時間割が自由に組めました。ぎりぎりの数しか履修しないと、ある日は三限目から、またある日は昼まで、あるいは五限目が空き、というように、大学と同じ感覚で通えたわけです。
 高一・高二に対してはある程度管理していた学校側も高三に対しては完全放置、授業のある時間に、校舎下の藤棚(これは『レテの支流』に登場させましたね)でだべっていても、がらがらの食堂でランチを済ませても、或いは校門から堂々と出ていっても、高三であればお咎めなし(その代償として進学実績をつくれ、ということですか)。実にありがたい制度でした。
 当然僕も、履修数は最低限、手帖に授業ごとの欠席数を記録、単位だけは落とさないよう気をつけて、さぼれる限りさぼっていました。朝、きちんと家を出るのですが、一年を通じ、一限から六限まで通して出た日は数えるほどしかなく、美大或いはデザイン学校進学が頭にあったために、予備校・塾にはまったく無縁(その後の人生を考えると皮肉極まりないことですが)、そのくせ、帰宅するのは毎晩九時過ぎ。銅版画を習いに版画家さんの工房に通っていた、という別の理由もありましたが、つまるところ、学校で過ごす時間の大部分は、油絵具、テレピン油、定着液などの匂いがしみついた、誰も通りがからないぼろ校舎の一階廊下奥、例のアトリエで費やされた、というわけです。
 今でもよく思い出す光景というのは、高三の晩秋のある日、午後四時過ぎのものです。授業を終えた下級生部員がアトリエに集まりだし、そのうるささに閉口するわ、何時間もの進展しない作業にも飽き果てたわ、で、ちょいと一服と学校を出て、近くの喫茶店で文庫本を読みました(サリンジャーかヘンリー・ミラーでした)。さてそろそろ、とアトリエに戻ると、既に下級生はとっとと帰り、代わりに、正規美術室(授業が行われる教室)でのデッサン授業を終えた同学年の部員がこちらへと場所を移していました(僕は参加していませんでした)。彼らとだべっているうち、ふと外を見ると、既に日も暮れかかっています。微妙な光と影の混淆にまぎれるようにして建物の外へと出ると、グラウンドでは片付けに精出す野球部員やらラグビー部員やらの影が蹲っていました。その向こうには高三生の校舎が聳えたち、希望者に補習を行う教室の白い煌煌とした灯りがまぶしく見えました(僕はこちらにも参加していませんでした)。そのうちふと考えました。さて、俺、これからどうしようかな、やっぱりふつうの大学を受験しようかな。ぼんやりと、刻々と夜の暗がりが広がっていく敷地全体を眺め続けます。とりあえず腹が減ったし、うどんでも食って帰るか(このあたりが関西ですね)、と踵をめぐらしたことを覚えています。
 さて、アトリエの壁面には、百号の絵が20数枚、立てかけられていました。今はどうか知りませんが、当時「私学展」という私立高校ばかりのコンクールが毎年夏にあり、そこに出品されたものがとって置かれていたのです。百号というのは畳二枚分ほどもあるけっこうな大きさで、しかも、高校生には正規の布地キャンバスを買う余裕はないため、木枠の上にベニヤ板を張ったものでした(けっこう重いものです)。全て一から作るのはたいへんだったため、夏が来ると、古い作品から順に、絵具を全て削りとり、白ペンキを塗ることで、再利用していました。
 僕が高二夏に出展した、地下鉄駅を描いたスーラばりの点描ものもその中にありましたが、それも、僕が東京で大学に通っている間に、後輩たちの新キャンパスに塗りかえられたことでしょう(結局、ふつうの受験をしたわけです)。さらには、僕の学年の美術部長だったD君の、ジャクソン・ポロックばりの抽象作品もその中にありました。作中では、語感が良かった余り、ジャスパー・ジョーンズという名前ばかり出してしまいましたが、筆に絵具をたっぷりつけて、ピッピッと振る、というのは、実はポロック作品の特徴です。

 ようやく、あとがきらしくなってきました。そのD君がジャズ好きだったのです。チャーリー・パーカーも、コルトレーンも、彼が好んで聴いていたものです。一方、当時の僕はロック一辺倒で、それもニューウェーブかグラム、或いはプログレばかりを聴いていましたから、D君につきあってジャズ喫茶に行くと、いつも閉口しました。何しろ、相手は、リズムに合わせ、目を瞑ってひたすら顎を上下しているばかり、暇で暇で仕方ありませんでした。僕がジャズを聴けるようになったのは、もっと年をくってから、といっても、キース・ジャレットが好き、という軟弱なもので、基本的に語る資格を欠いていますね。
 それでも、D君とは好みが共通するところもないわけではなく、ジム・モリソン(ドアーズ)とか、シド・バレット(ピンク・フロイド)とか、ジミヘンやジャニス・ジョプリン(この二人は僕はあんまり……)、シド・ヴィシャスとか、つまりは、死ぬかおかしくなったミュージシャンについては、なぜか話が合いました。そういや、ポロック、ジョーンズにはまる前のD君はゴッホに傾倒していたものです。死といえば、今は犯罪の中ばかりで語られますが、当時は美術、音楽、文学の中に死が充満していたように感じます。
 本書『サトシ・マイナス』は、そういう形での死をめぐる話にしようと考えました。つまり、美術と音楽の底にある死についての話ということです。絵を描いていた人間が描かなくなることも、一種の死であろうと思いました。ただ、最後に登場する寿司バーはやり過ぎでしたね。魔除けの絵が飾ってあり、死んだボーカリストの曲ばかりかかる店が実在するとしたら、ちょっと怖いと思います。一方、海に沈む夕陽がまっすぐ見通せる路地、というのは、三年ほど前までは実在しましたが、さて今もあるかどうか……。
 舞台は、僕が生まれ育った大阪南部が想定されています。死につつある地方、という概念も念頭にあり、東京を舞台にはしませんでした。関西弁を出さず、具体的府県名も一切出さなかったのは、普遍性を考えてのことです。大阪のことを「地方」というと、地元からも、他地域の方からもお叱りを頂戴しそうですが、都市化が進み、死にいく町と新しくできた町が同居するという、変化の交錯があるという点では、大阪市内はともかく、その近郊は、多くの県庁所在地の町と全く同じ状況にあると思います。
 実際、大阪南部は、関西新空港ができて以後、道路も整備され、マンション街も出現して、どんどんぴかぴかに変わっていきました。一方では、どこの駅前にも、シャッター通りというお決まりの風景が広がっています。せっかくぴかぴかになったところも、思うように客足・人口が増えず、うっすら埃を積もらせながら古びていく姿も目につきます。
 報道番組がよく取り上げてはいるにも関わらず、東京からはなかなかこうした実情――死と再生、古さと新しさが平衡を保ちつつも、先行きへのうっすらとした不安がはびこる状態――が見えてこないのではないか、21世紀初頭の今、こういう場所にこそドラマが生まれるのではないか、とも感じます。新しく生まれるものが何もない、という本当の地方の惨状についてはこの作品は何も目を向けていませんが、ネットどころかパソコンにも無縁なお年寄りばかりの町、というのも、あと20年は続く現実です。
 作品を描いている途中、特に、サトシやノッピーのぼろアパートを描いている際、鼻腔にふと油絵具の匂いを嗅いだ感覚に何度も襲われました。その時、記憶に蘇るのは、決まって高校の美術部のアトリエ(特に、冷房もむろんない、真夏のあのアトリエに充満する匂い)と、秋の終わりのグラウンドの端に立っていた自分のことです。つい、あとがきもそのことから長々と始めてしまいました。僕も、あの18歳の冬、プラス、マイナスとまではいきませんが、どこかで二つに分かれてしまったような気もします。
 僕はサトシの父親の世代ですから、ティーンエイジャーの描き方については、若い読者の方に違和感が生じるかもしれません。作中、時代の差をあえて無視したところもあり、一体これは何年ごろの話なんだ、と混乱する部分もあるかもしれません。ですが、混淆の70年代末と、ぴかぴかの21世紀を一緒くたにしたような、なんともいえない風景が描けたように思っています。
 わからない固有名詞や、時代錯誤的なところには目を瞑って頂き、バカバカしくてどこか切ないこのストーリーを楽しんでもらいたい、と心から願っています。

[終]
(2008年4月)

早瀬乱(はやせ・らん)
1963年大阪府生まれ。法政大学文学部卒業。2003年、『レテの支流』が第11回日本ホラー小説大賞長編賞の佳作となり、デビュー。06年、『三年坂 火の夢』で第52回江戸川乱歩賞を受賞。明治時代の都市風景と登場人物を魅力的に活写した探偵小説の登場に、一躍注目が集まる。本作では明るく爽やかな成長小説という新境地に挑戦した。他の著作に『サロメ後継』『レイニー・パークの音』がある。