ここだけのあとがき

2010.05.07

スペンサー・クイン/古草秀子訳『ぼくの名はチェット』[2010年5月]

ここだけの訳者あとがき
チェットが犬の目、犬の心ですべてを語る、
全世界の犬好きの心を鷲掴みにした傑作ミステリ。
(10年5月刊スペンサー・クイン『ぼくの名はチェット』)

古草秀子 hideko FURUKUSA

 

 名犬チェットが犬の視点から女子高生失踪事件の顛末を語る、スペンサー・クイン(ピーター・エイブラハムズ)の魅力的な全米ベストセラーを、ぜひともたくさんのみなさんに楽しんでいただきたいと、犬バカの訳者は心から願っております。
 この物語の黄金コンビ、名犬チェットとちょっとサエない私立探偵バーニーは、このうえなく強い絆で結ばれています。チェットは人間の言葉で会話こそしませんが、バーニーが落ち込んでいれば前足をそっと差しのべて慰め、彼が窮地に陥れば命をかけて助け、喜びはともに分かち合います。
 警察犬訓練所で優秀な成績を誇っていたチェットは、卒業を目前にして、猫がからんだ事故とやらのせいで落第して警察犬になれず、今ではバーニーのもとで探偵の相棒をつとめています。かつては陸軍士官学校卒のエリートだったらしいバーニーは、妻に離婚されて最愛の息子も取られてしまい、心も懐具合も寂しい生活を送っています。一人と一匹は、どちらも挫折した過去を持つ身の上というわけです。
 それにしても、もしこの世に犬がいなかったら、人間はどんなに孤独だったでしょうか。犬と一緒に暮らしていると、そのありがたみがつくづく身にしみます。チェットのバーニーへの献身には負けるかもしれませんが、わが家の迷犬ララ・クロフトも、訳者のような出来の悪い飼い主にストレートな愛情を惜しみなく与えてくれます。ちょっと買い物に出かけて帰宅すると、そのたびに猛烈に歓迎してくれるのは、いつもながらうれしいもの。「ああ、あなただけよね。こんなに愛してくれるのは……」と思ってしまいます(猛烈すぎて少々迷惑なときもありますが)。
 チェットは大型犬で、ものすごい食いしん坊という設定なので、拾い食いする場面がしばしば登場します。腐ったバーガーのかけらを食べて吐いたり、ポップコーンが歯に挟まってしまったり。ですが、食い意地が張っているという点では、わが家の迷犬も負けてはいません。じつは使い捨て髭剃りを食べたことがあります! ホテルのアメニティにあるような、プラスチックの本体に金属の刃がついているあれです。気づいたときには、プラスチックの部分はすべて消え、ぐちゃぐちゃに噛みつぶされた金属部分だけが残っていました。本人(犬)はどうも元気がなく、不安げな情けない顔つき。これは大変だと焦りましたが、しばらくするとゲゲッと吐き戻して、みごとに元気を取り戻しました。驚くべき回復力。それ以来、「迷犬の口が届く範囲にはなにも置くな」というのが、わが家の掟になったのは言うまでもありません。
 考えてみれば、人間の言葉をしゃべらないのは、犬が愛される存在である理由のひとつなのでしょう。迷犬ララ・クロフトは毎日、午後四時半になると、たとえこちらがどんなに忙しかろうがお構いなしに、ご飯をくれとヒーヒー声でうるさく催促します。もしこれが、「ご飯まだ? ご飯まだ? えっ、まだなの?」と人間の言葉でくりかえし要求されたなら、腹がたつかもしれませんが、彼女のヒーヒー声の呼びかけには、「あらっ、ごめんなさいね」と反応してしまいます。
 ところで、チェットがどんな犬種なのかは、今のところはっきりしません。どうやらミックス犬らしいのですが、どの犬種が混じっているのでしょうか? ウエブ上では読者たちがさまざまな自説を披露していて、これがなかなか面白いのです。たとえば、警察犬候補だったのでシェパードの血が流れているに違いないとか、原書カバーに写っている尻尾の色や形からしてボーダーコリーだろうとか……。ラブラドールだと主張する人もいます。もしかしたらバーニーズが混じっているのかしらとも思えます。あれこれ想像が掻きたてられて、いろいろ興味が尽きません。ちなみに、迷犬ララ・クロフトは白黒はっきりしたボーダーコリーで、散歩中に出会う子供たちから「パンダだ」と指差されたりしますが、原書カバーと瓜二つの尻尾の持ち主なので、この本を最初に一目見たとき、訳者は運命の出会いを感じました。
 この先、チェットが警察犬訓練所を落第した原因はくわしく語られるのか、バーニーがしがない私立探偵に落ちつくまでの過去は明かされるのか、シリーズの展開がとても楽しみです。

(2010年5月)

古草秀子(ふるくさ・ひでこ)
青山学院大学文学部英米文学科卒業。ロンドン大学アジア・アフリカ研究院(SOAS)を経て、ロンドン大学経済学院(LSE)大学院にて国際政治学を学ぶ。訳書にJ・バーンズ『イングランド・イングランド』、J・グローガン『マーリー』、マッソン『犬の愛に嘘はない』他多数。


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