さりげないほのめかしに満ちたクライムストーリイで、短編ミステリに独自の位置を、コリアは確保しました。他に「完全犯罪」という、『毒入りチョコレート事件』のパロディのような、いささか力の抜けた短編もあります。しかし、クライムストーリイは必ずしもコリアの本領ではなかったと、私は考えています。
「壜詰めパーティ」や「宵待草」といった作品は、翻訳家の伊藤典夫さんが、名指しでいまだに訳されていないと指摘したほどです(40年前の話です)が、どちらもユニークなファンタジーでした。「みどりの想い」は、私はそれほど買いませんが、アンソロジーに採られる頻度が高いようなので、読んでいる人も多いでしょう。
私は、コリアのほのめかす技術が活き、本領を発揮するのは、諷刺小説だと考えていますが、そのことに触れる前に、お気に入りの小品のことを書いておきましょう。「メアリー」という短編です。主人公の青年は、芸をする豚メアリーを飼いながら幌馬車で旅回りをしています。おそらくは旅回りの芸人の子どもとして生まれ、ロマなのかもしれない。メアリーは頭のよい豚で、文字や数字を読みますが、どうも性格がよろしくない。飼い主の青年は芸術家気質だなんて言ってますがね。幌馬車が故障し、一週間ほどアンドーヴァー付近で宿を探すところから、小説は始まり、宿の娘と親しくなる。青年はなにも知らないナイーヴで純情な男で、ままごとのような恋愛は、しかし、確かに実を結んでいきます。そして、結婚。娘を連れて幌馬車での旅回りに出ます。ところが、メアリーにはこの結婚が気にいらないらしい……。
豚と若夫婦の三角関係というのか、嫁姑関係というのか。メアリーはなんらかの比喩なのか、単なる豚なのか。これも一種のファンタジーかもしれませんが、あくまでリアリズムの範疇に足を置いているのが、絶妙です。コリアにはゴリラが言葉を解し小説まで書く「ある主題の変奏曲」という短編もありますが、ありえないことを夢想したはずの、その作品よりも、「メアリー」の方が幾層倍もイマジネイションの輝きを感じます。メアリーに気をつかい、ふたりは不仲となり、そのことを悲しむ娘の前に、ひとりの農夫が現われ、それをきっかけに、小説は結末になだれこみますが、コリアお得意の暗示的結末が、ここでも炸裂します。この結末は、曖昧さの度合いが、他の作品と比しても高く、ある有力な解釈はあるものの、その一通りだけの解釈は拒んでいると思います。
諷刺小説としては「魔女の金」に、まず、まっさきに触れるべきでしょう。コリアの中でもユーモアがストレイトかつ前面に出た小説です。コリアが語られる際に、ユーモアという言葉がよく用いられますが、私は、それほど強烈なものを感じたことはありません。もっとも、翻訳に左右されることでは、ユーモアの右に出るものはありませんから、原文で読まないかぎりは分からないのかもしれません。しかし「魔女の金」は違います。
フランスの田舎というか山村に、アメリカ人らしい画家がやってきて、家を一軒ポンと買い取ります。その金額は、貧乏な村にはかつて存在したこともないような大金です。手付の残金は、小切手で支払われますが、村人は小切手なんて見たことがない。持っていけば金に化ける紙だと思っているのです(手数料を引かれて、足りないと怒るギャグあり)。にわかにマネーサプライに見舞われた村では、てきめん商取引が活発になります。このあたりは、コリアとしても珍しい一種の活字のスラップスティックで、金があると思い込んだときの人間の愚行、バブル景気のサタイアとして絶品です。いまの日本にも、身につまされる人はいないかな。結末は、やはり、あからさまには書かれませんが、隠しているというより、作者が、登場人物たちには聞こえないように、読者に目配せしながら話を終らせているような感じです。おそらく、30年代か40年代の作品でしょうが、似たような愚かさは、依然、世界中で観察されるでしょう。まことに懲りないことですが、膾のふりして羹を出してみせるコリアのユーモアが堪能できます。
コリアのサタイアで、私がもっとも買うのは「眠れる美女」という作品です。女性以外には不自由なところのない、領主の末裔のイギリス人が、ひょんなことから滞在した(しかし帰国したがっている)アメリカの田舎で、見世物小屋の眠れる美女に一目ぼれしてしまいます。強引に故郷へ連れ帰るのですが、それまでに大部分の財産を使わせられてしまいます。このあたりの、アメリカにむしられる感じが、まずニヤニヤさせられるし、帰国後、彼女を覚醒させたのちも、彼の受難は続きます。題名、発想からも分かるとおり、寓話的雰囲気が濃厚ですが、最後の逆転と、そこにある苦さ不安定さは、ピカレスクと呼んでもいいかもしれません。
「頼みの綱」「葦毛の馬の美女」といったファンタジーふうの諷刺小説にも顕著ですが、コリアのサタイアは、彼がイギリス人であることの刻印が押されています。「眠れる美女」も同様で、というより、それが全面に展開されていると言っていいでしょう。
同じことは晩年の中編「海に落ちた男」(「船から落ちた男」)にもあてはまるでしょう。酔狂としか思われていない、海獣探しに血道をあげているニューイングランド人。世界中の海に大英帝国が君臨した時代の感覚を20世紀に持ち続ける、このズレた男は、笑いの対象でしかありませんが、慎み深い人々が相手であるあいだは、コトは表面に出ません。しかし、そんな彼の船に、傍若無人な、なんでも笑いのタネにしないと気のすまない男が乗り込んだら……。時代遅れのジェントルマンの立ち居振舞いは、逐一読者の頬をゆるませますが、そこに事故が起きます。それをきっかけに、主人公の反省がこれまた極端ですが、しかして、この結末の懲りないところは何でしょう。
「海に落ちた男」の初出はイギリスの雑誌アーゴシーだそうです。未知の領域に乗り出すことの好きなイギリス人気質と、その迷惑さ加減を、一見被害者を装わせながら諷刺するだけの業を、1960年の作品において、なお、コリアは持ちつづけていたのです。
■小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』
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