右手に月石。
左手に黒曜石。
口のなかに真珠。
カリュドウは三つの品をもって生まれてきた。
数奇な運命のもとに生まれてきたカリュドウ。
大型新人が放つ、驚異の物語。
数多くの名作ファンタジーを刊行してきた東京創元社が自信をもっておくる本格ファンタジー、先行公開!
1
右手に月石。
左手に黒曜石。
口のなかに真珠。
カリュドウは三つの品をもって生まれてきた。
産婆もつとめる女魔道師のエイリャは、驚き青くなった両親をなだめて口止めをした。 そうしてそれら三つの品を深紅の木の小箱におさめ、赤子といっしょに御天守山(ごてんしゅやま)の魔道師の館に持ち帰った。
キーナ村はエズキウムの近郊の豊かな土地である。都から村へと走る一本の道の、北側と南側に広がっている。北側にはカラン麦の畑が湖のむこうまでつづく。南側には、起きあがろうとしている一頭の馬の背のようにいくつかの丘陵がつらなり、やがては隣国パドゥキアとの境をなしている〈夕陽連山〉に変わっていく。御天守山は、丘陵の頂上にあり、その昔、パドゥキアの軍勢をくいとめるために建てられた館跡で、初夏には白い梨の花が青空にゆれ、秋には色づいた雑木林や青ブナの森の甘い香りに満たされ、冬になると深く雪が積もり、青藍石(せいらんせき)の影と水晶の光が交錯する。
カリュドウは山羊の乳と犬のぬくもりと女魔道師の言葉で育った。年中風邪をひいただの、熱を出しただのとさんざん手をかけさせたが、九歳をすぎるころからめっきり丈夫になり、十二歳になるころには村の子どもたちとも遜色なく山野を駆けまわり、浅黒い肌と、 麦酒色の髪と目の、細身だがばねのある少年に成長した。
村の誰が本当の親であるのかわからなかった。エイリャを「大おば様」と呼んだが、 血のつながりがないことは知っていた。人の常としては、両親を求めおのれの血のつながりを求めるものだ。しかし一切そうしたことを気にしなかった。三つの品をもって生まれたことを小さいときから聞いていたので、(もし前世というものが本当にあるのなら)前世と今をつなぐなにかのしるしであって、そのなにかのために生まれてきたのであろうことは察していた。時がくればいずれわかるだろうと思っていた。生まれてきた意味というものは、血のつながりとは一切関わりのないところで、ひらかれる本のように静かにあらわれてくるものだろうと感じていた。
本。
エイリャは物心つくころからカリュドウに本を与えた。カリュドウは一人ですわれるようになるころには、すでにエイリャの書庫にいた。魔道師ならではのたくさんの巻物、古い羊皮紙の束、葦(あし)紙や綿紙のつづり、上等な仔牛皮紙(ヴェラム)の書籍、木簡の山。カリュドウの最初のおもちゃだった。さらに、したたる蝋燭を気にもせず、エイリャは毎晩声に出して読んで聞かせた。わかろうとわかるまいと。カリュドウの子守唄。
少年となったカリュドウは、その頭のなかにすでに偉大な世界を築きあげていた。マードラ語やイスタイル語、パドゥキア文字、イスリル文字と、世界中の言葉が宙を飛びかい、文字がおどった。内容も多岐にわたった。ひと粒の種子の名前から草花の種類、一個の石に含まれる生成物から城砦の建築法まで。岩塩の生産地の坑道の掘り方から今着ている服の仕立て方も。自国エズキウムの歴史から世界の果ての南方の国々の政情も。十二歳もあと数日で終わるころには、晩秋のキーナ村の小道を、エイリャの代理として調合した薬をわたして歩き、相談事にのったりもしていた。
「あの子のなかには年をとった知恵者がいるみたいだねえ。あたしらよりはるかに年をとった人がね」
と齢九十になるアメアル婆さんが、もぐもぐ口を動かして、ようやく考えを口に出す。
「遊んでいる様子なんかは、まるっきり子どもなのに、病人を診るとなると、顔つきはまるっきりおとなだぜ。うちの坊主よりひとつ年上なだけなのにな」
と賞賛と少しの哀れみをまぜた口調で梨作り名人のクレールは言う。
「薄気味悪いやつだ」
と十五歳のスパニーグは唾を吐いて足元の草を蹴り、敵愾心をあらわにする。
「あの目つきが気に入らねえ。こっちのことをなにもかもお見通しって目で見やがる。殴ってやってもいいんだけどな、あとでなにをされるかわからねえ。いまんとこはエイリャがおさえてるからおとなしくしてるが、あいつの腹のなかは真っ黒な魔道師そのものだ」
なにはともあれ、キーナ村の住民は、エイリャは後継者となる少年を育てていると信じていた。
当のカリュドウは誰にもなにも心のうちを語らなかったが、ひとつ年下の村の少女フィンがエイリャと同じくらい上手に動物たちを手なずけ、あやつるのを見るにつけ、後継ぎは自分ではないと思うのだった。そのことはぐらぐらゆれる大岩に立つような不安定さを彼の内側にもたらした。フィンへの憧れと怖れが、きらめく泉がもたらす光と影のように、彼の心をしとどに濡らした。フィンは首の細い、漆黒の瞳をもった内気な女の子で、その外観も大きなとまどいのもとになった。
エイリャは、突然不機嫌になったり快活にしゃべりだしたりするカリュドウの視線の先をたどり、やがて問題のありかに気づいた。
そこで十三回めの誕生日の夜、林檎(りんご)の木のはぜる暖炉のそばに彼を呼んでさとした。
「フィンを護っておあげ。あの子の魔力はこの御天守山の根とつながっている。あの子はやがて、ここを護る占い女になるだろうよ」
「占い女? 魔道師ではなく?」
「あの子は魔道師にはなれない。アンジストがいるかぎり。あいつの目にふれたら殺される」
「アンジストって……」
エズキウムの支配者の名が突然出てきたので、カリュドウはぽかんとした。国中を統すべる偉大な魔道師、世界一の魔法使い、首都エズキウムを五百年にわたって護ってきたアンジストがなぜフィンを殺すのだろう。
「しっ」
とエイリャは警告した。
「ともかく、 女は魔道師にはなれない。今度くる 〈収穫めぐり〉ではあの子を魔道師どもの前に出してはいけない」
「じゃ、ぼくは?」
「おまえの役目はフィンを護ること」
「そうじゃなくて、そんなことを聞いているんじゃなくて――」
もどかしげに身体をゆすると、エイリャは両手で彼の顔をはさんだ。鳶色(とびいろ)に緑の斑(まだら)が浮く不思議な目をしている。
「答えは、いつか、おまえ自身の手でひらく本のなかにあるよ」
それ以上のことを聞きだすことはできないだろうとカリュドウは悟った。エイリャの、夏の木洩れ日のような瞳には、断固としたなにかがあって、一枚板の大きな樫(かし)の扉のように、秘密をしっかりとその奥にとじこめている。
「その日はいつくるの?」
仕方なくカリュドウは別の質問をした。
エイリャは諦念にも似た微笑を浮かべた。
「十年後かね。二十年後かね」
カリュドウはためいきをついた。そんなに待たねばならないのか?
「で、その本は? なんていう本? どこにあるの?」
エイリャは彼からはなれると暖炉の火をすくいとった。節くれだって皺の深い両手のあいだで、炎はしばらくもがいていたが、やがてあきらめたようにおとなしくなり、深紅の革の表紙をもつ大きな本を形づくった。
「それが――?」
「よくお聞き、カリュドウ。いい機会だと思うから、話しておこう。一度きりしか言わないよ。これがおまえの本だ。『月の書』という。魔法がかかっていて、おまえしかひらくことができない。しかもひらくには鍵が必要だ。さらにこの本は、自分で姿をくらますことができる。つまり、時がきて、おまえのなかの新月が育って力をもたないかぎり、姿をあらわさない。ほかのものがたまたま手にとったとしても、興味をまったくひかない、つまらぬ小さな本にしか見えない。どんなに魔力のあるものでもなにも感じず、書架に戻すだろう。けれどおまえが手にすれば、三人の魔女たちの運命の重さを感じることになる」
エイリャが重さに耐えきれなくなったように両手をぱっとはなした。炎の本は四方八方へ火の粉となって飛び散り、あとには黒々とした闇が残った。揺り椅子に腰をおろし、大きく吐息をついた女魔道師の膝のそばに、カリュドウはひざまずいた。
「意味がわからないよ、大おば様。 鍵ってなに。なんでぼくのなかに新月が育つの。三人の魔女ってだれ。ねえ、大おば様」
エイリャは片目だけあけてじろりとにらみ、
「おば様とおよび」
と凄む。しかし幼いときからくりかえしてきたことなので、カリュドウにはきかない。 二、三度揺り椅子を動かすカリュドウに、面倒くさそうに口をゆがめて言った。
「あたしにも全部わかっているわけじゃないよ。おまえが生まれたときから、あたしなりにいろいろ調べたさね。あっちの文献、こっちの巻物、親しい魔道師仲間、伝説をその片耳の裏側に縫いこんで野山をはねまわる獣たち。御天守山の頂上の杉の木にさえ聞いてみたさ。誰も確かなことは知らなかった。長い長い糸口をさがすように、時をはるかにさかのぼらないと見えてこないらしい。その糸の先は秘密の暗い瓶のなかにおしこめられている。でも焦りなさんな。言ったろう? 待っていればそのときがくるよ。あたしはおまえには村の魔道師として安穏に一生をおくってほしいよ。だから、その時なんかきてほしくないけれどね」
次の日からカリュドウは、エイリャがしたようにありとあらゆる書物をひっぱりだしてきて、自分の出生に関わるなにかをさがしはじめた。しかし彼には、頼りになる魔道師仲間の助言も、言うことを理解してくれる山野の獣もおらず、本と本の谷間ではなにひとつ得るものがなかった。探索は一年におよんだが、月が十三回姿を変えてめぐったあと、とうとうカリュドウは女魔道師の言葉に屈服する。その時がくるのを待つ、と。
しかしその探索は、求めているもの以外のほとんどあらゆることを知らせてくれた。幼いがゆえにそれまで目が届かなかったエズキウムの政治や機構、魔道師同士の友情の実体、人生の裏には、かくされたたくさんの暗い川が流れていることなどを、読みとることができるようになっていった。
キーナ村はエズキウムに属している。エズキウムは西に大海をはらんだ大陸のほぼ中央に位置す。千年のあいだ、他国の侵略の危機にさらされてきた。しかし一度も屈服したことがない。他国からは〈嘆きの地〉として知られる。堅固な街壁をもつ首都エズキウムと塩の街オイル、それにたくさんの近郊の村々。治めるのは首長会議と魔道師どもの協議会。しかしそれは表むきのことで、実際にすべてを手中におさめて支配しているのは魔道師長アンジストである。アンジストは五百年ほど前の〈エズキウム大戦〉で難攻不落の街壁を建造したエズキウムの守護者だ。他国からの魔道師の流入をふせぐ目的で、街壁に魔法をかけたという。以来一人たりともエズキウムに他国の魔道師が入ることはかなわなくなった。大戦後、名声を高め、以来第二次エズキウム大戦でもマードラやパドゥキアなどの南国連合からこの地を死守してきた。南の二つの大国をたたいたあと、 平和が百年つづき、エズキウムに繁栄をもたらした。それは一般庶民にはありがたい陽光となったが、魔道師どもには旱魃の強烈な陽射しとなったらしい。権力争いと謀術呪殺が日常茶飯事、とうとうこの混迷に堪忍袋の緒が切れたアンジストと四人の大魔道師によって〈粛清〉がおこなわれ、忠誠と服従を誓わなかった魔道師は根絶やしにされたという。そればかりではない。三年に一度の〈魔道師狩り〉と八年に一度の〈収穫めぐり〉で、地方の魔道師 〈検査〉を受け、魔道師の卵になりそうな子どもたちは早々とエズキウムに連行されて教育を受けることになったとか。こうしてさらに平穏と安逸の果実がたわわにみのった。エズキウムはさらに栄え、村々は収穫に酔い、アンジストと魔道師たちは、守護者として大いに人気を博した。しかしカリュドウは、熟した果物が内側から腐っていくことを学んでいった。魔道師どもはふたたび傍若無人のふるまいにおよぶようになり、忠誠を誓ったはずのアンジストの権力の座を虎視眈々とねらうようになった。仲間うちでの暗く醜い争いが再燃し、アンジストの足元をさえ焦がしはじめている。
「魔道師の役割は人々の日々の生活を助けること」とエイリャはカリュドウに教えたが、その言に従うのは権力に縁のない地方の魔道師たちばかり。中央の〈実力者〉たちは、人々の訴えなどには耳を貸さず、賄賂をうけとる袖ばかりが長くなっていった。
〈収穫めぐり〉の魔道師たちがキーナ村にやってきたのは、冬のはじめだった。ある寒い夕刻のこと、不意に館中に身体中の毛が逆だつような空気が満ちた。不審に思ったカリュドウが書庫から這いだすと、目の前に四人の大魔道師が立っていた。
小太りできんきんした声を出す男、二本欠けた指以外の指に、それぞれ二つずつ宝石をつけた男。眉毛のやたら太い男と、栄養の足りない白樺のように背の高い男。いずれもみな若く見える。だが見かけとは裏腹に、エイリャ同様、御天守山の礎と同じくらい年をとっていて、二つの魔道大戦を生き残ったつわものばかりだと直感した。
すぐに村中の子どもたちが集められた。七歳から十五歳まで、エイリャの広間に並べられ、さわられたり質問されたりした。子どもたちは生まれてはじめて見るエズキウムの四大魔道師に怖れをなし、ふるえて立ちつくすばかり。カリュドウでさえ、彼らの身体から発せられる冷たく暗い異様な空気に、言葉もなかった。しかしそのなかに、フィンの姿はなかった。
魔道師たちは来たときと同様に、いつのまにか姿を消していた。子どもたちは誰も選ばれなかった。おとなたちはわが子がエズキウムに連れ去られることもなく、エイリャの後継ぎのカリュドウをとられることもなかったので、大いに満足し、安心した。カリュドウは拍子ぬけもし、ほっとしてもいた。
ともかく、誰もフィンのことを思いださなかったのは、エイリャがなにか呪まじないをかけたからに違いなかった。
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