9月某日 どんなことになろうと、ふたりは運命を共にするのだ。ピーターと、そしてピーターのいのちをまず救ってくれ、それ以来あんなにつくしてくれた親切なやさしいジェニーと。はるかかなたにきらきらと緑かがよいながらこちらをさし招いている陸地まで、泳いでいくのもふたりもろともであろうし、万一泳ぎつけなければ――それでもよい、そのときも、少なくともさいごの瞬間までおたがいになぐさめあうことができる、そしてそれきり、二度とふたたび別れ別れになることはないのだ。 「ピーター、もどるのよ! くるんじゃなかったのに。あたしもうだめなの。さよなら、ピーター」 ――『さすらいのジェニー』 |
引越も終わって、段ボールに囲まれつつ、お仕事をしたりなんだりしている。 ふぅ。 籠っての原稿書きが終わって、インタビューとか打ち合わせをわしわしと入れてる期間なので、この日も夕方から予定があった。 朝日新聞文化部の記者さんが〈古典再読〉の特集を書いてて、その中でいろんな作家さんに一冊ずつ解説をさせるらしい。わたしは『嵐が丘』担当なので(あと佐藤優さんがドストエフスキーとか)、記者さんからの、「当方、男性。黄色いアロハシャツを着て、手に『嵐が丘』を持っています」という目印を頼りに、待ち合わせ場所に出かけた。 一目でわかり、無事会えた。 インタビューが終わって、帰宅。 時計を確認したら、近所の動物病院がまだ開いてる時間だったので、そうだ、フィラリアの薬をもらおうと出かけた。 薬をもらって、ちょこっとお話して、帰り際。獣医さんがいつもドッグフードとかおやつの試供品とかなにかしらいいものをくれるんだけど、引き出しを開けて「ちょっと待って、これあげるから……」「あれっ」「ん?」と、あちこち扉を開けるけど、なにも出てこない……。えー、なにもくれないのー、と不服そうに待っていると、 獣医さん「じゃ、今日はこれをあげるから(キッパリ)」 と、ハート柄のシールを一シートくれた。 うーん、シール……。 この日は帰宅して、犬小屋にシールを貼ってみて、それから新居の床に寝転がって、先日「カウ・ブックス」で買った『さすらいのジェニー』(大和書房)を開いた。 これは、確か小学生のときに、祖母から「面白かったよー」と渡されて読んだ本だ。最近になって、ポール・ギャリコの『雪のひとひら』を読んだら、よかった。で、ギャリコ再読フェアをやりたくなったんだけど、新潮文庫に入ってる『ジェニィ』を手にとっては「おかしいなぁ、わたしが読んだのは『さすらいのジェニー』ってタイトルだった記憶が。これって、あれを文庫化したんじゃないよなぁ」とぱらぱらしては、首をひねって棚にもどす、振りかえり、振りかえり、棚から離れる……を、紀伊國屋書店新宿本店二階の文庫コーナーで、何度も繰りかえしていた。 あぁ、ようやく再会できた、この本だったんだ、と思ってよく見ると、矢川澄子訳とあった。アッ、そうだったのか……! 猫好きだけど猫を飼えない主人公の少年ピーターが、ある晩、とつぜん猫になってしまった。その生活の苦労や楽しさを知っていく過程が、ほんとに猫になったことあるのかもというぐらい生き生きと描かれる。で、雌の野良猫ジェニーと仲良くなって、助けられ、次第に助け合うようになりながら、二人でどこまでも旅をして……。 繊細で、なのにお調子者で、優しくて、大人、ほとんどの部分がやわやわとやわらかいけど、部分的に壊滅的に硬い、そんなジェニー独特の語りの静けさが、なんだか矢川澄子っぽいような(〈ユリイカ〉の特集とか『おにいちゃん』のイメージだけど……)。 こないだ『秘密の花園』を再読したときと同じように、子供のころより“孤独”というキーワードに敏感に反応して、ピーターとジェニーと一緒に住みたかったのに、レバーだけ食べられて逃げられたおじいさんのシーンで、うぅ、寂しい、と涙が出たり(子供のころは「やったー、レバーもらって逃げたー」と、大人の裏をかいて痛快だった記憶が……)、うっかり海に落ちたジェニーを助けるためにピーターが迷いもせずにザブーンと飛びこむシーンでは、子供にしかできまいまっすぐさに、目の前がきれいな青に染まった気持ちになったり(当時は、友達のためだし当然のことだなーと思って読んでた……)、反応の違いをつきつけられて、楽しいけど忙しい。 途中、お風呂に入るので、本を『高杉さん家のおべんとう1』に変えて、一冊読み終わって出てきて、またジェニーにもどった。助けたり助けられたりしながら、ロンドンの下町からグラスゴーへ、そしてまたロンドンへ……二匹の不安で愉快な旅がいつまでも続いている。 |
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