Web東京創元社マガジン

〈Web東京創元社マガジン〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈るウェブマガジンです。平日はほぼ毎日更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

酒寄進一/ラルフ・イーザウ『緋色の楽譜』訳者あとがき[2011年10月]


本書をこうしてリスト生誕二百年の記念の年に
読者のみなさんに届けられることを本当にうれしく思う。
この機会にぜひフランツ・リストの音楽に触れ、
彼の音楽思想を体で感じてほしい。

(11年10月刊『緋色の楽譜』訳者あとがき[全文])

酒寄進一 shinichi SAKAYORI

 

 ●『緋色の楽譜』本の話題記事はこちら●

 2004年9月2日の夜、ぼくはベルリンのテーゲル空港に降り立ち、宿で一服したあと近くの酒場でビールを飲んでいた。ふと目にした店内のテレビでなにかが赤々と燃えている。火事のニュースだと思ったとき、「ワイマール」というテロップが画面下に浮かび、火を噴く建物の黒々とした輪郭が大写しになった。見覚えのあるシルエットだ。えっ、と思ったとき、テロップが変わって「アンナ・アマーリア大公妃図書館」という文字が目に飛び込んできた。
 本書の冒頭でフランツ・リストの楽譜が見つかった場所と設定されているアンナ・アマーリア大公妃図書館は、ワイマールの歴史的建築群のひとつとして世界遺産に登録されたのを期に修復されることになり、その工事中に古い配線から発火して建物もろとも貴重な収蔵品が灰燼に帰した。文化をこよなく愛した大公妃アンナ・アマーリア(1739年-1807年)は、ドイツ文学の黄金期、ゲーテやシラーが活躍した古典主義時代の立役者だった。その個人蔵書がもとになったこの図書館には、この世に一点しかない手稿や絵画なども収蔵されていた。ドイツ文学をはじめとしたドイツ文化に関心を持つ人にとっては、まさに聖地といえるような場所だ。
 じつはこのニュースを見た直後、この焼け跡から何か知られざる貴重な資料が見つかって……という妄想をたくましくしたのを覚えている。そのときぼくの脳裏にあったのは、ゲーテの代表作『ファウスト』の知られざる草稿だったが……。

 一週間のベルリン滞在を経て、ぼくはシュトゥットガルト近郊に住むラルフ・イーザウのもとを訪ねた。再会した直後、ぼくらはこの炎上した図書館のことを話題にした。まさかその三年後、彼がこの火災事件を織り込んだ物語を書くとはそのとき思いもしなかった。
 イーザウ宅に滞在中、もっとも忘れがたい思い出は、彼の友人である音楽家一家を訪ねた夜のことだろう。はじめから警告されていたようにひとりで五人分くらいの料理を食べさせられ、そのあとホームコンサートがはじまった。友人夫婦の両親は地元の交響楽団で名を馳せたチェロ奏者とフルート奏者。すてきな室内楽を堪能した後、家の地下にある音楽室で今度はウルズラさん=ピアノ、マンフレートさん=ベース、イーザウさん=ギター(ぼくは太鼓とタンバリン)で「カントリーロード」をはじめとするフォークソングを一晩中歌うことになった。まさかあの二人に捧げられた本をこうやって翻訳することになるとは知らずに。

 このときのイーザウ訪問は、ちょうど翻訳中だった彼の大作『暁の円卓』(長崎出版刊)の打ち合わせを兼ねていた。1900年に生まれ、百年の命を与えられた主人公とこの作品のタイトルにもなっている悪の結社〈暁の円卓〉との戦いを通して20世紀のテロと戦争を描いた物語だが、十二人いる結社員のひとりを主人公は最後に倒し損ねる。作中ではその最後のひとりがどこの出身でなんという名前かも明かされない。まさか本書で、その最後の生き残りネクラソフに出会うことになるとは。
 このネクラソフが典型ともいえるが、イーザウは頻繁に自分の作品の登場人物を別の作品にリンクさせていく。一作ずつに膨大な創作ノートが書かれ、作品中では語られない裏設定がそれぞれのキャラクターについて詳細に作られている。たとえば、ネクラソフは1820年生まれ。フランツ・リスト(1811年-1886年)より若干年下の設定で、本書のプロローグでもわかるように後年リストと〈力の音〉による力比べをする。本書は2005年に起こる物語なので、秘密結社〈暁の円卓〉はすでに解体しているが、ひとり生き残ったネクラソフは、フリーメイソンのマスターになり、本書で創作された秘密結社〈ファルベンラウシャー〉の長老として暗躍し、〈暁の円卓〉の意志を継いで世界の破滅を画策する。創作ノートでは目の色から性格までことこまかく設定されている。
 ラルフ・イーザウの創作ノートは本書のほぼ半分の情報量、テキストデータにして352ページに及んでいる。実在の人物やアイテムとして使われる楽器や教会などに関する詳細なデータ、創作された架空の人物の設定集、今生きている実在の人物からの名前の使用許可、それから本書でテーマとなる共感覚やサブリミナルに関する情報など多岐にわたる。
 創作ノートでは作品制作の過程もタイムラインに沿って詳しく記録されている。それによると、本書を最初に着想したのは、2003年2月5日、ドイツのテレビドキュメンタリー「共感覚――複数の感覚が混ざり合うとき」を見たときだという。音楽が持つすばらしさと危うさを「共感覚」を通して描こうというこのアイデアは、すでに冒頭で書いたように2004年9月のアンナ・アマーリア大公妃図書館火災事件によって拍車がかかり、フランツ・リストの存在が浮上する。2005年初頭、本格的な構想がはじまり、出版社へのプレゼンテーションは同年6月23日に行われ、2006年10月1日、イーザウの結婚30周年の日に脱稿した。

 ラルフ・イーザウは1956年ベルリン生まれ。作家としてデビューするのは1995年なので、遅咲きの作家といえる。彼の子ども時代から作家としてデビューするまでは『ラルフ・イーザウの宇宙』(長崎出版刊)で紹介しているので、興味のある方はぜひ参照して頂きたい。もともと娘のために書いた中編ファンタジー「竜のゲルトルート」(未邦訳)の私家版がミヒャエル・エンデに評価され、デビューのきっかけとなった。1995年には同書と同時に代表作であるファンタジー『ネシャン・サーガ』三部作(あすなろ書房刊)の第一部が出版された。
 ぼくはこの年ドイツ滞在にあわせて、エンデの『はてしない物語』でモデルのひとつとなったと目されるトルコの内陸カッパドキアをまわる旅を計画していた。8月末、トルコへ旅立つ前に、ぼくはベルリンの書店で、長旅のあいだに読むためのとびきり分厚いファンタジーを買い求めた。それが『ネシャン・サーガ』第一部だった。まさかこの作品がミヒャエル・エンデの力添えで出版された本とも知らず、このときエンデがこの世の人ではなくなったことにも気づかずに旅をつづけた。エンデが亡くなったのは1995年8月28日だった。
 このあとイーザウはエンデ以降のドイツ・ファンタジーの旗手と目されるようになった。『ネシャン・サーガ』を翻訳することになったぼくは、三部作完結後の1998年にはじめてイーザウを自宅にたずねた。以来、彼の代表的な作品を邦訳してきた。『盗まれた記憶の博物館』全二巻、『パーラ』全二巻、『見えざるピラミッド』全二巻、『ミラート年代記』全三巻(以上あすなろ書房刊)、『暁の円卓』全九巻、『銀の感覚』全二巻、それから日本オリジナル企画の絵本『わらいかたをおしえてよ』(以上長崎出版刊)、『ファンタージエン 秘密の図書館』(ソフトバンククリエイティブ刊)がある。
 彼の作風は基本的にファンタジーだが、1999年から2001年にかけて出版された『暁の円卓』以降、サスペンス作品をコンスタントに書いている。邦訳されたサスペンス作品は『銀の感覚』に次いで本書が二作目になる。未邦訳を含むサスペンス作品を簡単に紹介しておこう。

  2003年 Der silberne Sinn『銀の感覚』(長崎出版刊)
  2004年 Der Herr der Unruhe『振り子の王』(未邦訳)
  2005年 Galerie der Luegen『偽りのギャラリー』(未邦訳)
  2007年 本書
  2008年 Der Mann, der nicht vergessen kann『忘れることのできない男』(未邦訳)
  2009年 Messias『メシアス』(未邦訳)

 イーザウのサスペンス作品には必ず異能者が主人公として登場する。かっちりした歴史的事実を背景に、そうした人物を配する物語作りは、実際には『暁の円卓』から始まっている。この作品の主人公は一瞬先が予知でき、色を変える能力をもっている。それだけだといかにもファンタジーに聞こえるが、じつは相対性理論を根拠にした設定になっている。
『銀の感覚』では、すぐれた共感(エンパシー)の能力を備えた人物が登場する。この能力を兵器として活用しようとするCIAが絡み、1978年にガイアナで起こった人民寺院の集団自決事件から話がはじまり、共感の能力を備えた少女が生き残る。一方、マヤ文明やインカ文明以降、ガイアナのジャングルで人知れず生き延びてきた謎の民「銀の民」の末裔が共感の能力を備えた人物として登場し、現代文明の有り様に一石を投じる。
『振り子の王』は、1930、40年代のムッソリーニに支配されていたイタリアを舞台に、町のドンに時計職人の父を殺された若者の復讐劇が中心に描かれ、やがて若者とドンの娘の恋が絡み、まるで「戦時下のロミオとジュリエット」という様相を呈していく。若者はユダヤ人で、機械と心を通わせる能力があり、「機械博士」の異名を持つ。あまり語られることのないムッソリーニ治下のユダヤ人の運命に光が当てられる。
『偽りのギャラリー』はクローンがテーマになる。しかもこの作品のクローンは究極の人類を目指した両性具有だ。姿形から遺伝子にいたるまで、まったく同一の人物が十六人。ある者は謎の死を遂げ、ある者は自分を生みだしたその組織のボスに復讐するため、そのボスが経営する美術品保険会社を狙ってヨーロッパ各地の美術館を襲撃する。そして主人公は犯人と間違えられたことがきっかけで、美術館襲撃を追跡することになるジャーナリスト。物語にはやがて遺伝子の問題を超えて進化論とインテリジェント・デザインの対立へと展開していく。
『忘れることのできない男』は、見聞きしたものを瞬時に記憶し忘れることのできないサヴァン症候群の主人公が、19世紀に作られ、未だに解読できないビール暗号に挑む物語だ。この暗号解読の結果、現在知られているアメリカ合衆国独立宣言が贋作であることがわかってしまう、というところから思いがけない事件が起こる。
『メシアス』はアイルランドの小村の教会で、ある日、手と足に傷を持ち、イバラの冠をつけた全裸の男が発見されるところから物語がはじまる。イエスの再来、ついにハルマゲドンが始まったと人々は騒然となる。この真偽を確かめるために、バチカンから派遣されるのが本書の後半に登場する「異端審問官」へスター・マカティアだ。彼にかつて恋人がいたこと、そして娘がいること、そしてヘスター本人も神父であった父の道ならぬ恋の結果であることが読者に明かされていく。
 先にネクラソフを例にして、登場人物が複数の作品にまたがるケースを紹介したが、本書では端役のマカティアがすでにどのような人物として設定されていたかを見ると、イーザウの創作の楽屋裏がよく見てとれるだろう。

 ヘスター・マカティア略歴
 1954年5月6日、グレイグナマナハ(アイルランド、キルケニー県)生まれ。彼の兄パトリックは1931年1月31日生まれ、1954年5月6日(つまりヘスターの誕生日)にベトナムのディエンビエンフーの戦いで戦死(享年23歳)。ヘスターはすでに子どものとき、父親シーマス・ウィーランに裏切られたと感じていた。そこで父親を怒らせるため、父親が嫌がることばかりする。たとえば、しばらくのあいだボクサーになる。その後、父親と同じ道をたどる。今は父親よりも立派な神父であることを見せたいがため、日々精進している。
 中学校はロックウェルに通う。修学志願期に哲学を学び、宣教師活動はタンザニアで行い、修練期をキルシェイン神学校で過ごす。その後三年間(1978年-1980年)、修道誓願。この時期、神学と歴史学を学ぶ。そして1980年司祭に叙階される。だが、このときフィオーナ・キャロルと出合い、道を踏みあやまり、父と同じように成就することのない恋に落ちる。そして1981年6月24日、一人娘(あるいは二人?)アニー・サリバンが生まれる。こうした破戒僧は教会では日常茶飯事のことで、毎度闇に葬られる。彼はローマの修道院本部へ移り、やがてバチカンで地歩を築く。その後、列聖省で奇跡の真偽を質す〈信仰の促進者〉となり、天職となる。彼は教皇から〈聖下の名誉称号を保持する司祭〉の称号を受ける。

『メシアス』が発表された直後の2009年11月、ぼくはイーザウの朗読会に参加している。朗読された『メシアス』の主人公がこのマカティアであることに気づいたとき、ぼくの頭はスパークした。これは訳したい、だがその前に本書を訳さねば、そんなことを思ったものだ。

 余談になるが、この朗読会の会場は不思議な本屋だった。買おうと思った本を店主が読み直したいから売れないといい、代わりに別の本をただでくれた。このときもらった本が一足先に翻訳したフレドゥン・キアンプールの『この世の涯てまで、よろしく』だ。本書の「著者あとがき」で「フリーメイソンの世界の思いがけない一面を見せてくれた」というプラッツァー氏がその店主。また彼の夫人はアイリッシュハープの製作者で、確認はしていないが、ハープ、竪琴、風鳴琴のアイデアに大きく貢献していると思われる。
 朗読会のあと、書店の二階にあるプラッツァー邸のリビングで夫人が奏でた美しいアイリッシュハープの音色が今でも耳から離れない。イーザウはぼくの隣で懐かしいものでも聴くようにうっとりしていた。
 音楽は美しい。人の心を打つ。だがただ美しいだけでなく、「人類の普遍言語」でもあるという考えを、イーザウはフランツ・リストと共有している。「風配図の足跡」の名のもとにイーザウは、リストのたどった道へと読者を誘い、音楽のもつ普遍的な力を深く考える機会にしてほしいと望んでいる。
 本書をこうしてリスト生誕二百年の記念の年に読者のみなさんに届けられることを本当にうれしく思う。この機会にぜひフランツ・リストの音楽に触れ、彼の音楽思想を体で感じてほしい。最後に『この世の涯てまで、よろしく』の訳者あとがきの冒頭に掲げたベルトルト・アウエルバッハ(1812年-1882年)の言葉をあげて、ぼくがたどった音楽ミステリーの円環をひとまず閉じることにしよう。アウエルバッハはリストより一歳年下の1812年生まれだ。

  音楽だけは世界語であって
  翻訳される必要がない
  そこでは魂が魂に語りかける
       ベルトルト・アウエルバッハ



(2011年10月)

酒寄進一(さかより・しんいち)
1958年生まれ。ドイツ文学翻訳家。上智大学、ケルン大学、ミュンスター大学に学び、新潟大学講師を経て和光大学教授。主な訳書に、イーザウ《ネシャン・サーガ》シリーズ、コルドン『ベルリン 1919』『ベルリン 1933』『ベルリン 1945』、ブレヒト『三文オペラ』、ヴェデキント『春のめざめ――子どもたちの悲劇』、キアンプール『この世の涯てまで、よろしく』、シーラッハ『犯罪』ほか多数。



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またまた桜庭一樹読書日記 【第15回】(3/3)[2011年10月]



9月某日

 プロレスは言葉だ。口から出るものばかりではない。相手にフォールされた時、必死に跳ね返せば、観客には選手のやる気が伝わる。すべての技、すべての動きを言葉として観客に伝えること。それがプロレスラーの仕事なのだ。

 母の涙を見たとき、私はようやく気づきました。
 母は母なりのやり方で、私を愛していたのです。
 でも、私には私自身の物語がありました。

 全女とは「狂犬を作るシステム」(長与千種)なのである。


――『1985年のクラッシュ・ギャルズ』

K子 「トイレに積まれた本が、怖い……」
わたし「へっ、トイレ?」

 引越の数日後である。
 段ボールごとどかどか積まれた本の山を、片付けても片付けても、終わらないー。そして、本は、重い。この独特のズッシリ感……! 出版社も流通も書店も、力仕事でもあるんだな……。と、打ち身と、切り傷と、筋肉痛でアイタタになりながら整理を続けていたら、K子女史がふと陣中見舞いにきてくれた。
 おいしそうなパンの袋を差しだして、

K子 「これ、差し入れのパンです~」
わたし「やったぁ! あっ、そういえば……わたしもK子さんにあげようと思って、さっきパンを買ったんですよ(ごそごそ……)。はい、パンです~」
K子 「えーっ……??」

 パンの物々交換になる。
 なんか、へんだな……。
 2人してすっきりしない表情のまま、まぁ、座ってお茶を飲む。
 荷造りのときに気づいたのだけど、荷物がもう紙ばっかりだった、という話をする。プラスチック(CDとかDVD)と布(服)の比率が少ないというか、うーん、あんまり持ってないや。べつにいいや。

わたし「契約のときにね、不動産屋さんに、保険のために『30万円以上の持ち物があるなら書きだしてください』って言われたんですけど、考えるまでもなく、なかったという……。荷物はほとんど紙で、しかも高価な古書も集めてないし。この部屋にあるいちばん高いものって、やっぱり、液晶テレビですかねぇ」
K子 「むむっ」
わたし「持ってる中でいちばん高価な物って、みんな、いったいなんなんでしょうね」
K子 「高いものねぇ……。わたしは、転職したときにエイッときばって買った、この時計ですかね。コレ……(手首をさす)」
わたし「……(手首を見る)」
K子 「あれっ、わたし、してないよ!」
わたし「し、してませんね……」

 そういや500円で買った指輪のほうをすごく気に入ってて、いつもつけてるらしい。まぁ、そういうもんですかねぇ、とうなずきながら、不動産屋さんでの会話を思いだす。ほかのお客さんはどんなものを書きますか、と聞いたら、「やっぱり絵画が多いですね。女性ならジュエリー。あと、やはり壺です」「えっ、やはり壺って、あの壺……?」とのことだった。
 壺……? 30万円以上の……壺? やはり……? 他者の生活とはしみじみ謎である。
 と、K子女史がトイレから「積まれた本が怖い!」と言いながら転がり出てきた。へっ、と思って、見に行く。

わたし「これから読む本を、トイレの棚にドーッと積んだんですよ。出入りするたびに目に入るから、埋もれることなく、読みたい気分のときに手に取れるという、この賢者の知恵……。ふふふふふ、真似してもいいですよ?」
K子 「いや、でもこの並び、やたらと恐ろしいんですけど……。『このページを読む者に永遠の呪いあれ』(マヌエル・プイグ)、『世界終末戦争』(バルガス・リョサ)、『ちくま少年図書館2/恐ろしい本』(長谷川四郎)、『絆と権力 ガルシア=マルケスとカストロ』とか……」
わたし「えっ? ホッ、ホントだ。いったいなんでだろう。恐ろしい本を買いつつ、無意識に後回しにしてたのかな」

 よく見ると、その上からも『骨狩りのとき』『逆さの十字架』『顔のない軍隊』『とむらう女』『孤独の部屋』と、呪われたようなタイトルが固まって、こっちを睨んでる(壺のある部屋よりへんかも……)。
 それはともかく、お腹が痛くてトイレから出られなくなったときのためにも、『名著再会 「絵のある」岩波文庫への招待』『フランスの色』『寺山修司青春歌集』とか、ちょこちょこ読めるタイプの本が隅にちゃんと置いてある。早くも、本読み的にはトイレは異常なしだ(まぁ、ちょっとだけ並びが怖いけど……)。
 本棚の整理のほうは、なんとなく長期戦を覚悟して、一休み。
 夜、福田和也さんが週刊誌で紹介してた新刊『1985年のクラッシュ・ギャルズ』を出してきて、読んだ。すごく好きだった井田真木子『プロレス少女伝説』を思いだしながら。
 女子プロレスのブームに少女たちが熱狂した“あの時代”を描いているのだけれど、時代という主人公の人格をあぶりだすために、なにやら複雑な構成を取っている。1章では一ファンの少女の一人称で熱狂のド真ん中の空気そのものを書いてて、2章以降は、ノンフィクションの文体になってデータを記す。6章で再び、件の少女が語りだすのだけれど、どうやらこの人は一ファンではなく、重要な誰からしいぞと匂ってくる。なんだ、未来のプロレスラーか? いったい誰なんだろ……。サスペンスフルに語りが進んで、そのうち『プロレス少女伝説』の著者、井田さんまで出てきて、その昔の本自体も巻きこまれて、この新しい本の一部にされて、どんどん多重構造になっていく。そうすることで、著者は当時の熱狂の周囲を歩き回り、語り続ける。
 読み終わって、やっぱり一緒におかなきゃいけないなぁと思って、段ボールから『プロレス少女伝説』を探しだしてきた。と、一緒に『私は「居場所」を見つけたい』(これはサイン本!)が出てきたので、三冊並べて本棚に入れてみた。あっ、やっぱりしっくりくるぞ。
 そしたら、さいきん読んだ1冊を主軸に、テーマのあう本を3冊並べると一人で楽しい、というトランプ的なへんな遊びを思いついてしまった(こんな夜遅くに……)。『田舎暮らしの猫』『猫鳴り』『ある小さなスズメの記録』で挟んだり、『ラブレス』の左右に『ハルカ・エイティ』『嫌われ松子の一生』を置いてみたり。『清水アリカ全集』の左右に、高城高と渡辺温を並べてみて、ちがうかな、詩情と冷温の、永遠の青年っていう共通項が……いや、おおざっぱすぎてだめかな、と悩んだり。
 ……どんどん楽しくなってきた。
 夜が更けても、いつまでも、段ボールが積まれた新居の本棚の前にペタンと座って遊んでいた。

(2011年10月)

桜庭一樹(さくらば・かずき)
1999年「夜空に、満天の星」(『AD2015隔離都市 ロンリネス・ガーディアン』と改題して刊行)で第1回ファミ通えんため大賞に佳作入選。以降、ゲームなどのノベライズと並行してオリジナル小説を発表。2003年開始の〈GOSICK〉シリーズで多くの読者を獲得し、さらに04年に発表した『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が高く評価される。05年に刊行した『少女には向かない職業』は、初の一般向け作品として注目を集めた。“初期の代表作”とされる『赤朽葉家の伝説』で、07年、第60回日本推理作家協会賞を受賞。08年、『私の男』で第138回直木賞を受賞。著作は他に『荒野』『ファミリーポートレイト』『製鉄天使』『道徳という名の少年』『伏-贋作・里見八犬伝-』、エッセイ集『少年になり、本を買うのだ 桜庭一樹読書日記』『書店はタイムマシーン 桜庭一樹読書日記』『お好みの本、入荷しました 桜庭一樹読書日記』『本に埋もれて暮らしたい 桜庭一樹読書日記』など多数。


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またまた桜庭一樹読書日記 【第15回】(2/3)[2011年10月]




9月某日

どんなことになろうと、ふたりは運命を共にするのだ。ピーターと、そしてピーターのいのちをまず救ってくれ、それ以来あんなにつくしてくれた親切なやさしいジェニーと。はるかかなたにきらきらと緑かがよいながらこちらをさし招いている陸地まで、泳いでいくのもふたりもろともであろうし、万一泳ぎつけなければ――それでもよい、そのときも、少なくともさいごの瞬間までおたがいになぐさめあうことができる、そしてそれきり、二度とふたたび別れ別れになることはないのだ。

「ピーター、もどるのよ! くるんじゃなかったのに。あたしもうだめなの。さよなら、ピーター」


――『さすらいのジェニー』

 引越も終わって、段ボールに囲まれつつ、お仕事をしたりなんだりしている。
 ふぅ。
 籠っての原稿書きが終わって、インタビューとか打ち合わせをわしわしと入れてる期間なので、この日も夕方から予定があった。
 朝日新聞文化部の記者さんが〈古典再読〉の特集を書いてて、その中でいろんな作家さんに一冊ずつ解説をさせるらしい。わたしは『嵐が丘』担当なので(あと佐藤優さんがドストエフスキーとか)、記者さんからの、「当方、男性。黄色いアロハシャツを着て、手に『嵐が丘』を持っています」という目印を頼りに、待ち合わせ場所に出かけた。
 一目でわかり、無事会えた。
 インタビューが終わって、帰宅。
 時計を確認したら、近所の動物病院がまだ開いてる時間だったので、そうだ、フィラリアの薬をもらおうと出かけた。
 薬をもらって、ちょこっとお話して、帰り際。獣医さんがいつもドッグフードとかおやつの試供品とかなにかしらいいものをくれるんだけど、引き出しを開けて「ちょっと待って、これあげるから……」「あれっ」「ん?」と、あちこち扉を開けるけど、なにも出てこない……。えー、なにもくれないのー、と不服そうに待っていると、

獣医さん「じゃ、今日はこれをあげるから(キッパリ)」

 と、ハート柄のシールを一シートくれた。
 うーん、シール……。
 この日は帰宅して、犬小屋にシールを貼ってみて、それから新居の床に寝転がって、先日「カウ・ブックス」で買った『さすらいのジェニー』(大和書房)を開いた。
 これは、確か小学生のときに、祖母から「面白かったよー」と渡されて読んだ本だ。最近になって、ポール・ギャリコの『雪のひとひら』を読んだら、よかった。で、ギャリコ再読フェアをやりたくなったんだけど、新潮文庫に入ってる『ジェニィ』を手にとっては「おかしいなぁ、わたしが読んだのは『さすらいのジェニー』ってタイトルだった記憶が。これって、あれを文庫化したんじゃないよなぁ」とぱらぱらしては、首をひねって棚にもどす、振りかえり、振りかえり、棚から離れる……を、紀伊國屋書店新宿本店二階の文庫コーナーで、何度も繰りかえしていた。
 あぁ、ようやく再会できた、この本だったんだ、と思ってよく見ると、矢川澄子訳とあった。アッ、そうだったのか……!
 猫好きだけど猫を飼えない主人公の少年ピーターが、ある晩、とつぜん猫になってしまった。その生活の苦労や楽しさを知っていく過程が、ほんとに猫になったことあるのかもというぐらい生き生きと描かれる。で、雌の野良猫ジェニーと仲良くなって、助けられ、次第に助け合うようになりながら、二人でどこまでも旅をして……。
 繊細で、なのにお調子者で、優しくて、大人、ほとんどの部分がやわやわとやわらかいけど、部分的に壊滅的に硬い、そんなジェニー独特の語りの静けさが、なんだか矢川澄子っぽいような(〈ユリイカ〉の特集とか『おにいちゃん』のイメージだけど……)。
 こないだ『秘密の花園』を再読したときと同じように、子供のころより“孤独”というキーワードに敏感に反応して、ピーターとジェニーと一緒に住みたかったのに、レバーだけ食べられて逃げられたおじいさんのシーンで、うぅ、寂しい、と涙が出たり(子供のころは「やったー、レバーもらって逃げたー」と、大人の裏をかいて痛快だった記憶が……)、うっかり海に落ちたジェニーを助けるためにピーターが迷いもせずにザブーンと飛びこむシーンでは、子供にしかできまいまっすぐさに、目の前がきれいな青に染まった気持ちになったり(当時は、友達のためだし当然のことだなーと思って読んでた……)、反応の違いをつきつけられて、楽しいけど忙しい。
 途中、お風呂に入るので、本を『高杉さん家のおべんとう1』に変えて、一冊読み終わって出てきて、またジェニーにもどった。助けたり助けられたりしながら、ロンドンの下町からグラスゴーへ、そしてまたロンドンへ……二匹の不安で愉快な旅がいつまでも続いている。



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