ヒトラーの愛人の知られざる姿に光を当てる、
傑作ノンフィクション
(12年1月刊『ヒトラーに愛された女』訳者あとがき[全文])
酒寄進一 shinichi SAKAYORI
2015年が近づいている。戦後七十年になるこの年は、いろいろな意味で歴史の節目になるだろう。「戦争」の記憶が、あるいはその体験がますますただの知識へと加速度的に変わろうとしている。1945年に二十歳で戦後を迎えた人々は九十歳になる。第二次世界大戦の風化がいっそう進むはずだ。それは日本もドイツも変わらない。
しかしドイツは、この2015年に日本とはすこし違う事情も抱えることになる。ドイツでは、著作権の保護期間は著作者の死後七十年までとされており、1945年に亡くなった人々の著作権がこの時をもって消滅する。そのなかにはアドルフ・ヒトラーの名もある。子孫がいなかったことから著作権が当時住民登録していたバイエルン州の管理下に置かれ、ドイツでは事実上出版が禁じられているヒトラーの著作も、この年を境に「保護」されなくなるのだ。
この2015年をにらんでドイツの出版界を注視しているなかで、ぼくは本書ハイケ・B・ゲルテマーカーのエヴァ・ブラウン伝Eva Braun: Leben mit Hitlerに出合った。ナチス・ドイツに君臨したヒトラーの隠された愛人であり、自殺の直前、妻に迎えられた女性である。彼女の存在は、当時絶対のタブーであり、それゆえに謎のベールに包まれていた。エヴァ・ブラウンについてはすでにいくつか著作があるが、本書はこれまでなかなか触れられることのなかった当時のさまざまな関係者の言説をくまなく掘り起こし、彼女の半生を再構築した力作だ。
ドイツの代表的な雑誌〈シュテルン〉は、「エヴァはこれまで長らく従順なお馬鹿さんと思われていたが、決してそのようなことはないことが明らかになった。彼女は自分の運命を自力で勝ち取ったのだ。非政治的で凡庸な存在ではなかったのだ」と、本書があぶりだしたエヴァ・ブラウン像を評価している。その後、本書は二度にわたってドイツのテレビドキュメンタリーの原作に使われ、いまやエヴァ・ブラウン論のスタンダードとして定着した観がある。実際、本書の前半ではエヴァとヒトラーが出会ったミュンヘンの時代の空気感やエヴァの生い立ちから始まって、ゲーリング、ゲッベルス、シュペーアなどナチ要人の妻たちとの比較などが目配りよく生き生きと描かれ、後半では権力の頂点に上りつめたヒトラーとともにその栄華を恣(ほしいまま)にし、やがて没落していくエヴァの姿が浮き彫りにされている。それは、これまで彼女につきまとっていた権力者の「お飾り」というイメージとはだいぶかけ離れた姿である。
本書は、映画『ヒトラー――最期の12日間』(2004年)あたりから顕著になってきた、ヒトラーへのアプローチの変化の延長上にある。「悪魔」呼ばわりされたヒトラーを「人間」として捉え直そうとする試みだ。本書でも、エヴァとの恋愛を中心に描くことで、公の場では見せることのなかったヒトラーの「人間」としての一面が見えてくる。
だが、映画『ヒトラー――最期の12日間』は公開当時かなりの物議を醸した。まだヒトラーを「人間」として見ることはタブーだと感じる人が多かったからであろう。
ドイツの戦後は振り返ってみれば、ナチの犯罪を究極の罪と捉える立場と、さまざまな時代、さまざまな地域に同じような事件がいくらでも起こっているとする相対化や歴史修正の試みとの拮抗の歴史のようにも見える。
ぼく個人の体験を顧みると、ドイツに留学した1979年の七月に、ナチ犯罪者に対する時効が撤廃されたことを鮮明に記憶している。当時の西ドイツ政府はこの時点でナチ犯罪に関して殺人罪の時効を廃止し、永久追及を決断した。ただし、そのときの国会の投票では、各党が議員に対して党議拘束をせず、採否の判断は各議員の良心にまかされることになり、その結果は255対222という僅差となった。
またこの年、ナチ時代のユダヤ人迫害の残虐さをユダヤ人医師一家とナチに荷担するドイツ人弁護士の両面から描いたアメリカのテレビドラマ『ホロコースト――戦争と家族』がドイツで放映された。これを見てナチスドイツが行った非道をドイツ人が認識しなおしたという一面がある一方、放送直後、あれは事実無根だ、という論評が新聞にも載り、この放映を阻止するためにネオナチがテレビ送信塔を爆破するというテロ事件まで起こっている。
1980年代に入ると、歴史の風化を避けるため歴史の真実を直視しようという呼びかけが改めてなされる。終戦四十周年の1985年に行われたリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領(当時)の演説――『荒れ野の四十年――ヴァイツゼッカー大統領演説全文』(永井清彦訳、岩波ブックレット)として刊行されている――や戦後世代のドイツ人もナチ犯罪の過去を背負わざるを得ないとしたラルフ・ジョルダーノの『第二の罪――ドイツ人であることの重荷』(永井清彦ほか訳、白水社)がそうした論調の代表格だ。
だがそれだけでなく、ナチの問題をどう歴史的に認識すべきかで、新たな論争が起こっている。いわゆる「歴史家論争」がそれだ。歴史家エルンスト・ノルテが1986年にフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙に「過ぎ去ろうとしない過去」と題する論文を発表したことで、歴史修正主義者が勢いづいた。
このように、ナチ問題については、ナチを直接体験し、美化とまでいかなくとも否定したくない戦中派とその価値観(親の価値観)に疑義を抱く息子の世代が対決する構図があった。本書の著者ゲルテマーカーは1964年生まれで、この1980年代中盤に二十代だった。その意味で著者の立ち位置はきわめて興味深い。当然ではあるが戦中派ではない。また1960年代から70年代にかけて、ナチに荷担した戦中派を批判した戦後世代とも温度差がある。いわば戦中派から見て孫の世代に位置する彼女は、このとき何を思ったのだろう。その後、歴史家の道を選んだ著者は、二十数年をかけて本書で自分の答えを出したような気がする。
ゲルテマーカーと前後する年齢のドイツ人のなかには、これまでとはすこし違ったスタンスでナチと向かい合う人々が出てきている。ナチと向き合い、そこから新たな物語を紡(つむ)ごうとする人々だ。
たとえば、ナチ体制下で権力の中枢にいた一人、バルドゥール・フォン・シーラッハの孫で、刑事弁護士となったフェルディナント・フォン・シーラッハがいる。彼の祖母ヘンリエッテは、エヴァとヒトラーのキューピッド役だった写真家ハインリヒ・ホフマンの娘であり、エヴァとは深い縁があった。そのフェルディナント・フォン・シーラッハも本書の著者と同じ1964年生まれだ。2009年に短編集『犯罪』(拙訳、東京創元社)でドイツの出版界に旋風を巻き起こした彼は、今年2011年九月に、一部のナチ犯罪を時効にしてしまったドイツの刑法修正をめぐるスキャンダルをベースに、「過ぎ去らない過去」と対峙する若い刑事事件弁護士を描いた法廷小説Der Fall Collini(仮題『コリーニ事件』、東京創元社より刊行予定)を発表し、大きな反響を呼んでいる。
ナチの記憶や体験が薄れていくなか、新しいナチの物語を創出しようというこうした動きは、これから2015年に向けて引き続き活発になっていくだろう。アドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンの人間関係の新たな読み直しを試みた本書も、そうした流れのなかのひとつの成果としてひもとかれることを願ってやまない。
■ 酒寄進一(さかより・しんいち)
1958年生まれ。ドイツ文学翻訳家。上智大学、ケルン大学、ミュンスター大学に学び、新潟大学講師を経て和光大学教授。主な訳書に、イーザウ《ネシャン・サーガ》シリーズ、コルドン『ベルリン 1919』『ベルリン 1933』『ベルリン 1945』、ブレヒト『三文オペラ』、ヴェデキント『春のめざめ――子どもたちの悲劇』、キアンプール『この世の涯てまで、よろしく』、シーラッハ『犯罪』、イーザウ『緋色の楽譜』ほか多数。
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