Web東京創元社マガジン

〈Web東京創元社マガジン〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈るウェブマガジンです。平日はほぼ毎日更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

ぼくには連続殺人犯の血が流れている、 ぼくには殺人者の心がわかる。バリー・ライガ『さよなら、シリアルキラー』[2015年5月]



ニューヨークタイムズ・ベストセラー。
全米を沸かせた異色の青春ミステリ


ジャズは忠実な親友と可愛い恋人に恵まれた、平凡な高校生だ――ひとつの点をのぞいては。それはジャズ の父が21世紀最悪と言われた連続殺人犯で、ジャズ自身幼い頃から 殺人者としてのエリート教育を受けてきたこと。彼が住む田舎町で殺人 事件が発生、ジャズはそれが連続殺人だと主張するのだが……。

怪物の息子として生きるということがどういうことかを教えてくれる、最高のスリラーである。残虐で緊迫感に満ちた、大人の読者の期待に応えられる作品だ。(パブリッシャーズ・ウィークリー)



読者モニターの皆様の声

青春ミステリと呼ばれるものは数あれど、こんな変化球を投げて見せる青春ミステリはそうそうないと舌を巻きました。これまでの探偵はその観察眼や知力で犯人を追いつめてきましたが、今作の主人公ジャズは、なんと殺人鬼としての英才教育を受けた経験をもとに、殺人鬼にじぶんを重ねて犯人を追うというのです。そこにジャズの、ひとを簡単に殺せてしまう己への深い慟哭が重なるとあれば、ただシリアルキラーを描いた作品とは一線を画します。スリリングでありながら、恐ろしいだけの小説とは違う趣があるのです。
(30代女性)

いやはや、読みやすい訳(とくにジャズの心理描写や会話描写の小気味の良さ!)も相まってか、スゴい勢いで読んでしまった。読み始めてからほぼ栞を使うことなく、もう先が気になって気になって食事中に読み、風呂に持ち込み、一気読み。一見爽やかな“青春ミステリ”に釣られて読むと、良い意味で裏切られる圧倒的疾走感のサスペンススリラーだった。そう、この小説の読んでいて気持ちのいいところは、ジャズやハウイー、コニーのティーン感溢れる“疾走感”にあると言えるだろう。

 読みやすく、先を急ぐ指が止まりませんでした。警察に幾度も撥ね返され、そのたびに疲れを知らない若さと熱量でその扉をこじ開けたジャズが、正義の探偵ではなく殺人鬼により近いという倒錯したストーリーは青春ミステリというには凄惨すぎる展開ですが、ジャズとハウイーそしてコニーの三人の大人になる直前の若さに救われました。
(?代女性)

 連続殺人が起こり恐怖と緊迫感が覆う物語の中に、親友や恋人との絆、少年の成長という「青春」の要素が描かれ、単なるシリアルキラーを題材とした小説とは一線を画しています。主人公が連続殺人犯の父の教えを受けて育った少年というのもユニーク。
驚愕の展開の連続ですが、最後にはタイトルの「さよなら」が力強くも哀しく響きます。
(20代女性)

 この物語の根底にあるのは「父親のようにはなりたくない」という反抗心だと思いました。殺人事件を捜査し解決できる能力を持っているけれどその能力をくれたのが父親、という葛藤に苦しみながら親友や恋人に助けられ、克服しようとする主人公ジャズの成長が感じられました。この葛藤を乗り越えたジャズの更なる活躍に期待しています。
(20代男性)

 反抗期って,親殺しの時期。心のうちにある親(の価値観)を殺し自分を作っていく時期だなということを改めて味わわされた作品です。連続殺人犯に殺人のための英才教育を受けて育った少年が主人公ですが,心のうちにある親から施された価値観を自分の手で壊し,成長していく様は,どんな人も通る反抗期そのものです。世間に出ていき,親の価値観と世の中の価値観とのギャップを味わい,修正を施し,生きていく術を身に着けていく。通ってきた道のりは異常でも,成長していく過程は実は普遍的なものだなと……推理小説としてより少年の成長小説として読んでいました。
(40代女性)

 大リーグボールは投げないけど、
親父のスパルタが半端じゃない。
男子2人に女子1人だけど、
ファンタジー(ハリーポッター)
よりもリアル。
ダークサイドに行かないよう
これからも見守りたいので、
シリーズ化を希望します。
(40代男性)

 連続殺人犯を父にもち、幼いころから殺人鬼の英才教育を施されてきた…そんな主人公ジャズの〈特異な〉設定だけでこの本の映画化権は買い!
その後のストーリーはどう進むのかと思ったけれど…原題「I Hunt Killers」の意味が判明する終盤、いい意味で裏切られました(こりゃ私費でも買いだわ)。
(40代女性)

 21世紀最悪とも言われる連続殺人犯の父から殺人の英才教育を受けてきたジャズが、親友のハウイーと恋人のコニーを通じて内なる殺人への衝動を抑えようとする姿には、思わずしっかり自分を保ち、その能力を活かして新たに現れた連続殺人犯を追えと応援したくなるのと同時に、親友に対する信頼や、恋人に対して自分の真実の想いを自覚する様子に青春小説らしい清々しさと切なさとを感じさせてくれた。
 しかし、ジャズが怒りに駆られた時には逆にその衝動を解放する姿を期待してしまったのも事実で、主人公のジャズだけではなく読んでいる自分自身が内に隠してきた“怪物”の存在に気付かされた。
(40代男性)

これは主人公ジャズの、色とりどりのインクで書かれた手記であり履歴書であり果たし状でありラブレターだと思いました。
ジャズはどんなインクの色も出せるペンのよう。
父を思い出すときは血の赤。G.ウィリアムと喧嘩の時はブルーグレー。聡明な恋人コニーの前ではピンク。
だけどふとしたときに全ての色が混ざり合ってしまう。濁った色に苦しむ。
それをどす黒くも、薄れさせることもなく。ラストでジャズ唯一の鮮やかな色にしてみせた著者の筆力!しびれました
(30代女性)

 ジャズが心で、口で繰り返す「人は大事だ。人は本物だ」という言葉、ビリーが記憶の中で繰り返す「おれたち」という言葉。この二つの間は遠くて近い。
ジャズにとって心から大切な親友のハウイーと恋人のコニー。彼らがそばにいてさえ、シリアルキラーのビリーの声は頭から離れてはくれない。ビリーの呪縛はそれほどに強い。だからこそ殺人鬼として教育された記憶を正しいことに使おうとあがくジャズの心の戦いはとても惹き込まれる。
震えるほどの非情な教育には鳥肌がたち、容易に彼を解放してはくれないだろうと理解せずにはいられない。
自らの血を嫌悪し恐怖するジャズ。
田舎町ロボズ・ノットで起きたこの連続殺人事件、シリアルキラーの出現はジャズの心の底から一体何を掘り出したのか。
読み出したら止まらないこの物語を、彼の心と共に駆け抜けて欲しい。
(20代女性)

 主人公が事件を通じて大人になっていく成長譚であるのだけど、
なにせ連続殺人犯の息子であるので、置かれた環境はむごく暗い。
ただ、親友・恋人・父を捕えたがその後を気にかけてくれる保安官と、
とりまく人間関係の暖かさが闇落ちを防いでくれている。
ミステリ好きとしては事件を解決すべくの手がかり調査や推理を聞かせて欲しいと思いつつ、青春小説好きとしては事件なんかいいから幸せに過ごしてくれよと思ってもしまいました。
常にトラウマとして襲い掛かる連続殺人犯の父親の影があまりに重く、
読後感も決して100%爽快ではありませんでしたが、読み始めてからは一気読み。
最後できれば別の展開を期待しつつも、主人公の状況・取った行動での決断の中での最善手だろうから見守るしか仕方ない。って、やっぱり成長譚ですかね。はい。
(30代男性)

 数年前まで“殺人”を悪だと知らず、殺人スキルを持つ少年。
ヒーローっぽくない探偵役で新しかったです。
普通のミステリーなら、もう少し安心感を持って読めるんですが、主人公の不安定さにハラハラしっぱなしでした。
(20代女性)

 青春とは大いなる序章である。これは「はじまり」に過ぎない。
読み終わったとたん、こんな言葉が頭に浮びました。
犯罪がらみの青春小説というので、最初は『ヴェロニカ・マーズ』(TVドラマ)みたいな作品なのなか、と思ったのですが、半分当って、半分外れていました。また、天才倒錯犯罪者が出るからといって『羊たちの沈黙』を思わせるような展開になってないところも高評価です。
「シリアルキラー」をタイトルにするだけあって、殺人の描写はなかなかハードです。主人公のジャズ君の、正真正銘の天才倒錯殺人者である父親との関係だけでなく、祖母との、そして母親との、とにかくこんなんじゃやってられない関係に、つい涙しそうになりました。でもジャズ君は親友に恵まれ、彼女だっています。とくに彼女は強い。あんな彼女がいて、ジャズ君は幸せです。
思い返せば、自分も青春時代は莫迦でした。今も、かもしれませんが……
シリアスな作品でありながら、ジャズ君も、親友のハウイー君にも、若者らしい莫迦さ加減があって、そういうところがこの作品の魅力です。 (40代男性)

 読み始めてから、一気に物語に引き込まれます。父親が何を考えて殺人教育をジャズに施したのか、街で起こる事件と重ね合わせ、淡々と述べられる描写がかえって恐怖感を煽ります。救いなのはどんなことがあっても、けして見放さない2人の存在。潜在的な殺人者だと自認するジャズにとって守りたい、愛する人がいるのは、父親と大きく異なる点で、強みでもあり弱みともなりえます。話の最後は次の話も読みたいと思わせる、強い引きがありました。
(30代女性)

 とても刺激的で面白かった。そもそもの着眼点が素晴らしいけど、そのネタだけに頼るわけではないところが素晴らしい。キャラクターが立っているし、文体も瑞々しいし、続編の翻訳が今から待ち遠しいです。
(40代男性)


(2015年5月8日)




【2009年3月以前の「本の話題」はこちらからご覧ください】

海外ミステリの専門出版社|東京創元社

連載エッセイ 高島雄哉 『想像力のパルタージュ』 第2回(2/2)


 ニュートンが林檎が落ちるのを見て万有引力を思いついた――というのは眉唾ものだと思うけれど、彼はロンドンで流行していたペスト禍を逃れて故郷のウールズソープで思索の日々を過ごしているから、林檎の実が落ちる瞬間を見たことはあるかもしれない。あるいは落ちた林檎の実を見て、月が地球のまわりを回るのも林檎が地球に向かって落ちるのも同じ万有引力によるのだと彼が考えたとしても不思議ではない。太古から月と地球は異なる法則に支配されていると考えられてきたが、ニュートンは物理法則が宇宙全体で普遍的であることを、地球にいながらにして証明したのだ。
 森羅万象をモデル化し、法則や属性といった共通性を取り出そうとするのは、科学における強い傾向と言える。科学の一つ、物理学もまた伝統的に普遍性を追求してきた。アインシュタインがまず一九〇五年に発表した特殊相対論は、重力を扱うことができず、適用できる範囲も限定的だった。アインシュタインは自らの理論を〈拡張〉し――特殊を一般化して――その十年後に一般相対論を完成させる。それは宇宙全体を一体のものとして記述し得る理論となった。
 林檎も月も宇宙全体も、それらのあいだには共通性があって、〈同一視〉することができる。物理学は、時間と空間を同一視して〈時空連続体〉と考え、物質と時空を同一視して〈場〉として扱う。
 同一視はもっと身近なところにもある。中学の図形の証明問題では、よく三角形の合同が題材になる。位置や向きが違っていても、三辺相等や二角挟辺相等という条件を満たしていれば、同じ三角形と見なす。
 アンが「想像の余地がない」と言ったのは、こうした同一視を指しているのではないだろうか。あらゆるものを同一のものと見るのなら、過去も現在も未来もない無時間のなかで、現実と想像の区別もなくなってしまうだろう。小石川植物園とプリンスエドワード島とぼくの部屋の区別をしないなら、もうどこにも行かなくていい。
 事象の共通性に目を向ける〈同一視〉は決して科学だけのものではなく、日常的にもしばしば用いられると思うけれど、確かに幾何学ではかなり積極的に同一視をする。
 エウクレイデスがプトレマイオス一世に「幾何学に王道なし」と語った逸話が史実であるかはさておき、二千年にもわたって幾何学といえばユークリッド幾何学のことだった。だからこそニュートンは『プリンキピア』でユークリッド幾何学を用いたのだし、今でも世界中で学ばれているのだろうけれど、十九世紀にはそれ以外にも様々な幾何学が成立していた。
 ユークリッド幾何学では、直線Iに対して、I上にない点Pをとると、lに平行で点Pを通る線は一本しか引けないとする。これは日常的には当然のことのようにも思えるが、曲面上では引ける平行線の数は変わるのであって――無限の本数の平行線が引けるとすれば双曲幾何学、一本も引けないとすれば楕円幾何学という――それでも数学的に破綻のない幾何学が構成できることが十九世紀前半に示されたのだった。
 一八七二年、数学者のフェリックス・クラインはエルランゲン大学の教授就任講演において、そうした幾何学をその内部の〈不変量〉によって分類することを提唱した。
 彼の考えた〈クラインの壺〉は管を裏表のないように繋げたもので、三次元ユークリッド空間では自らと交叉してしまう。交叉のない壺は四次元ユークリッド空間でないと実現しないのだ。クライン管とも呼ばれるこの図形は位相幾何学(トポロジー)の教科書にはしばしば登場する。
 位相幾何学は十八世紀の数学者レオンハルト・オイラーが始めたとされ、ドーナツとコーヒーカップを同一視する幾何学だとよく言われるけれど、クラインの視点からは、連続的に変形しても変わらない量(ここでは穴の数)に注目する幾何学と見なすことができる。同様に、ユークリッド幾何学では、平行移動や回転した図形は元の図形と合同であり、一様に拡大ないし縮小した図形は元の図形と相似であるとするが、それはつまり――前回の〈五重塔〉にも似て――ぼくたちが「これとこれは同じ形だ」と言うときの〈形〉を不変量と考える幾何学なのだ。
 そしてもちろん他の幾何学にも、固有の(変形の規則と)不変量がある。クラインは複数の幾何学のあいだに共通性があることを見抜き、統一的に理解することを可能にしたのだ。メタレベルにおいて幾何学を〈同一視〉したと言っても良いだろう。
 同一視を徹底するのは幾何学のみならず、科学全般の特徴と言える。そして科学的な同一視には相応の想像力が必要だ。想像力がなければ時間と空間を、そしてドーナツとコーヒーカップを同一のものと見ることはできない。
 しかしそれはアンの想像力とは方向性が真逆のものだ。アンは鉢植えのゼラニウムを“ボニー”と名付ける。普通名詞ではなく固有名詞を使うことによって、個々の事物に触れようとしているみたいだ。科学とは違う、彼女自身のやり方で。
 だからぼくは思うのだ。アンは幾何学の考え方を――つまりは幾何学的な〈同一視の想像力〉のありかたを――正確に理解していたのではないだろうか。そのうえで、彼女の考える想像力が、幾何学の想像力とかけ離れていたために「(幾何学には)想像の余地がない」と言ったのではないだろうか。
 クライン流に見ると、アンの想像力と同一視の想像力のあいだにも共通性があるように思えてくる。どちらも不変なものを残しながら、大胆に見たものを作り変えて、世界を描き出す。違うのは何を不変量とするか、だけだ。同一視の想像力は普遍性に注目し世界を拡張し、アンの想像力は多様性に着目して多世界を作り出す。もちろん、ぼくが以上のように言ったところで、アンは個々の花を同一視しないのと同じように、二つの想像力を同一視したりしないに違いないけれど。

anandclain.jpg  アーシュラ・ル=グィンの「オメラスを歩み去る人々」の Omelas は、オレゴン州セイラムの道路標識 Salem,Oregon を逆さに読んで思いついたという。アンが鶏小屋で見つけたランプの破片を“妖精の鏡”と名付け、真夜中に妖精たちが舞踏会をして忘れていったものだと想像するのにも似た、新たな世界を創出する想像力が作用しているようにも思われる。それは、この世界から別の世界へと移動する、見えない連絡方法を見つける想像力と言ってもいいだろう。
 この文章でぼくは新しい言葉を探しているのだが、もう少しだけ同一視の想像力を追求してみたい。なんとなれば、言葉は同一視なしには存在し得ないシステムなのだから。
 同一視の想像力もまた、かけ離れた二者を結びつけることができる。たとえば、一見SFとは見えない作品に対してSF要素を見出していく楽しみ方がある。今回で言えば、アンの宇宙と我々の宇宙では幾何学が異なっていて、アンの学校では本当に「想像の余地がない」幾何学が教えられている、『赤毛のアン』は多宇宙SFなのではないか。ぼくはそういう書き手の意図を無視する読解が大好きなのだけれど、こういう読み方は共通性に着目する〈同一視の想像力〉によって支えられていると言えるだろう。
 この同一視の想像力は強力で、SFのみならず、ありとあらゆる二者に対して共通性や類似性を見出し、自らの世界を〈拡張〉し続ける。
 SFは伝統的に最先端の科学の知見を取り込んできた。同時にSFは明に暗に科学の想像力に刺激を与えてきたと言っていいだろう。ここでは科学を世界と言い換えてもいい。もしウェルズが『タイムマシン』を書かなかったとしたら――それこそタイムマシン的な思考実験だけれど――タイムマシンの理論研究がこれほど盛んに行われてきただろうか。SFを読んで科学に興味を持ったという研究者は数知れない。
 だからと言って、科学とSFを同一視する人は少ないはずだ。それはそれぞれの想像力の〈形〉が大きく異なっているからだ。科学とSFとオカルトの三者の関係性についてもいずれ考察したいけれど、むやみに共通性を強調して同一視することが誤りであることは自明だ。「あ」と「あ」を同一視しなければ文章が理解できないのと同様に、「あ」と「い」を同一視したら最早ぼくたちは会話もできなくなる。
 ちなみにアンはとにかく幾何学だけが苦手で、代数は問題なくこなしている。これは中学における代数の問題の多くが文章題であり、いろいろと状況を想像して楽しめるからだろう。
 そのアンは中学三年生になる前の――九月始まりのカナダの学校の――夏休みに、信頼するステイシー先生の勧めもあって、勉強を一切せずに友人たちと大いに遊ぶ。そして学校が始まる前日、次のように育ての親であるマリラに言う。

"I feel just like studying with might and main," she declared as she brought her books down from the attic. "Oh, you good old friends, I'm glad to see your honest faces once more―yes, even you, geometry.”(「私、思いっきり勉強したいと思って」彼女はそう宣言し、屋根裏から教科書を降ろした。「ああ、懐かしき友たちよ。なんじらの誠実な面差しを再び見ることがあろうとは。――うん、あなたもね、幾何学さん」)


 ぼくはアンほど勤勉ではなく、まして何かを宣言する気はないのだけれど、このエッセイが終わるまで、多くのことを学ばねばならないと思う。でなければ、科学あるいは世界の想像力を刺激するような、新しい〈タイムマシン〉なんて見つけられるはずがないから。焦燥感に似ているかもしれないこの個人的な感覚を、今はこれ以上説明できそうにない。
 アンは『グリーンゲイブルズのアン』の最終章で、進学をやめて近所の学校で教師になることを決める。もう一人の育ての親であるマシューが亡くなり、マリラを残して大学に行くことなどアンにはできないからなのだが、これが可能性を大きく狭める選択だということも彼女自身よくわかっている。それでも彼女に迷いはなく、モンゴメリの筆致はぎりぎりのところでアンの決断を読者に納得させる。アンは自分の未来を道に喩え、まっすぐに延びていた道が曲がり角に来たのだと言う。そして彼女は曲がり角の先に希望があると確信して第二巻へ向かう。
 小石川植物園には数千の草花があって、丁寧に名前の書かれたプレートが設置されているけれど、ここにアンがいれば一歩進むごとに鮮やかな名付けをしてくれるだろう。七十万の植物が生い茂る園内は広大で――かつて関東大震災時には三万人が避難したという――草花に混じって樹齢を重ねた木々も多く、異界の深い森のなかにいるような気分になってくる。

koishikawa.jpg  ピタゴラスの定理(三平方の定理)の証明は日本では中学校で習う。おそらくアンもプリンスエドワード島で習っただろう。この定理を証明する方法は五百以上もあって、近年も発見されている。証明の数に上限があると考える理由はない。きっとこれからも見つかるだろう。
 このエッセイの結末とSFの未来を重ね合わせるつもりはまったくないけれど、ぼくはどちらにも希望を持っている。さしたる予想があるわけではない。ただ、定理の証明法も植物園の歩き方も無限にある。ぼくが知り得る世界には限りがあるとしても、そこには無限個の無限があって、新しい〈タイムマシン〉はきっと数限りなく存在する。そして今はまだ、そのうちのほんの数個しか発見されていないのだ。
 焦燥感も希望も、この文章を書き進むにつれて、徐々に明らかにできるはずだ。同一視の想像力を含むありとあらゆる想像力を駆使して――あるいは分有して――幾何学的というよりはSF的にぼくの個人的な焦燥感を打ち消して、最後には世界と希望を分かち合えればいいと思う。

(翻訳部分は高島による)
(2015年5月8日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!

連載エッセイ 高島雄哉 『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』 第2回(1/2)


 ――パルタージュpartageとはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
 小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
 それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。


『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』
第2回 赤毛のアンはなぜ幾何学が苦手か――小石川植物園より

高島 雄哉 
yuya TAKASHIMA(写真撮影=著者/カット=meta-a)

●これまでの高島雄哉「想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして」を読む 【第1回

 アンの日々の行動が魅力的だったことばかりが印象に残っていて、最近きちんと読むまで特に意識していなかったのだけれど、『赤毛のアン』の主人公アン・シャーリーはとても勤勉で、学校の成績が良い。プリンスエドワード島ではライバルのギルバートと常に学年一位を争い、カナダ本土の大学への奨学生にも選ばれている。
 その彼女が唯一苦手な科目が幾何学で、教師には嫌味を言われるし、進学のときにも彼女の障壁となる。作者であるモンゴメリは、作劇上の都合で一科目だけ苦手にしたのだろうか。そうだとしても、どうして幾何学なのだろう。幾何学といえば数学のなかでも想像力を駆使する分野のような気がするけれど、とにかくアンは次のように言う。

“I'm sure I'll never be able to make head or tail of it. There is no scope for imagination in it at all.” (私には絶対一生理解できない。想像の余地がないんだから)


 アンは自分の部屋から見える桜の木を“雪の女王”、近所の池を“きらめきの湖”と名付けるなど、いつも何かを想像している。彼女自身もこの想像の余地 scope for imagination を大切なものと考えており、かなり頻繁にこの言葉を使う。上の台詞はその一例というわけだ。
 つまりはアンの口癖みたいなものなのだが、だからといって幾何学が苦手な言い訳として適当に使っているわけではない。むしろ彼女にとって譲れない核心に幾何学は抵触しているのだ。もちろん彼女の考える幾何学が、ということだけれど。
 ここでぼくも言い訳めいたことを書いておくと、アンのシリーズは本編が九冊、スピンオフの短篇集が二冊あって、ぼくは本編の第一巻『グリーンゲイブルズのアン』しか読んでいないので、それ以降のことを知らない。
 ただアンはかなり意思が強く、彼女の赤毛をからかったギルバートに五年間ずっとツンケンした態度を取り続けるほどだから、幾何学についてもよほどのきっかけがない限りは意見を変えたりしないはずだ。
 一体どうしてアンは幾何学を想像の余地のないものだと思ったのだろうか。あるいはモンゴメリ自身がそう思っていたのかもしれない。アンにはモンゴメリの少女時代が濃厚に投影されているのだから。
 上の台詞を口にしたときのアンは地元の学校に通っている。そこは教室が一つだけの、どうやら小学校と中学校が混ざったようなところなので――きちんと調べれば当時の教育の様子もわかるだろうが――アンが苦手にしている幾何学はいわゆる初等幾何だと思われる。図形の長さや面積を求める問題や、定規とコンパスを使って条件を満たす図形を描く作図問題、そして二つの角度が等しいことを論証するような証明問題などを、二十一世紀の今も世界中の子供たちが解いている。アンの舞台は十九世紀末のカナダだが、数学教育は今と大して違わないらしい(のですが、定かではありません)。

 今年はアルベルト・アインシュタインが一般相対性理論を完成させて百年になる(特殊相対論は一九〇五年、一般相対論は一九一五年です)。そして一般相対論と言えば、曲がった空間の幾何学――リーマン幾何学だ。
 十九世紀の偉大なる数学者カール・フリードリヒ・ガウスが「曲面上の幾何学」の研究を始め、弟子のベルンハルト・リーマンがそれをn次元に〈拡張〉して、リーマン幾何学を作り上げた。アインシュタインは友人の数学者に教えられ、二十世紀初頭の物理学者の多くが知らなかった新しい幾何学を自らの理論に取り入れたのだった。
 物理学が万物の理論を目指す以上、最先端の数学を用いるのは当然のことだろう。特に幾何学は、古来より〈土地を測る〉ための数学であり、世界の成り立ちを記述する数学なのだから。
 アイザック・ニュートンが一六八七年に著した『プリンキピア』には力学の様々な定理が示されているが、彼は定理を証明する際、彼のもう一つの大きな業績である微分積分を使わず、ユークリッド幾何学を用いている。ユークリッド――すなわち紀元前三世紀プトレマイオス朝の都アレクサンドリアの数学者エウクレイデス――の『原論』は史上最も読まれた数学書だが、長いあいだ論証の模範とされており、十七世紀の哲学者スピノザも『エチカ』『原論』に似せて書いている。ニュートン力学はユークリッド空間内での運動を記述する理論なのだし、彼が説明にユークリッド幾何学を選んだのは当然だったのだろう。
 そしてニュートンと言えば林檎の木だ。
 apple.jpg ちなみに隣にはメンデルの葡萄が、藤棚ならぬ葡萄棚で、こちらも元気にツルを伸ばしていた。メンデルと言えばエンドウ豆を使って遺伝の法則を発見したことで有名だが、葡萄でも同様の研究をしていたのだという。ニュートンの林檎は航空便で羽田空港に届けられたが、メンデルの葡萄はそのちょうど半世紀前の一九一四年にシベリア鉄道でチェコから運ばれた。それが今ここに二つ並んでいる風景には、どうしたって歴史を感じてしまう。

(2015年5月8日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーのWebマガジン|Webミステリーズ!
東京創元社ホームページ
記事検索
タグクラウド
東京創元社では、メールマガジンで創元推理文庫・創元SF文庫を始めとする本の情報を定期的にお知らせしています(HTML形式、無料です)。新刊近刊や好評を頂いている「新刊サイン本予約販売」をご案内します【登録はこちらから】


オンラインストア


文庫60周年


東京創元社公式キャラクターくらり