Web東京創元社マガジン

〈Web東京創元社マガジン〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈るウェブマガジンです。平日はほぼ毎日更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

連載エッセイ 高島雄哉 『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』 第5回(1/2)


 ――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
 小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
 それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。


『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』
第5回 幽霊のいる多宇宙――講談の世界から

高島 雄哉 
yuya TAKASHIMA(写真=株式会社影向舎、著者/カット=meta-a)

●これまでの高島雄哉「想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして」を読む 【第1回】 【第2回】【第3回】【第4回

 この夏、七月二十二日から九月十三日まで、東京藝術大学美術館では三遊亭圓朝の幽霊画コレクションを中心とした展覧会「うらめしや~、冥土のみやげ」展が開催中。会場では今回のインタビュイーである一龍斎貞水(いちりゅうさい・ていすい)先生の〈立体怪談〉の映像が流されている。この世ならざる存在を表現するための様々な試行錯誤を涼しく追体験できるはずだ。詳細はこちら
(本連載の「第4回 想像の特異点――将棋の論理と取材の言葉から」でお世話になりました松本博文さんの著書『ルポ電王戦』が第27回将棋ペンクラブ大賞の文芸部門で大賞を受賞されました。おめでとうございます。)


 修善寺(しゅぜんじ)に行ったのは二〇一一年の八月のことだった。
 伊豆市修善寺には、修禅寺という寺がある。漢字が違うだけで、読みは同じだ。修善寺は温泉街の一つで、真ん中を東西に修善寺川が――地元の人は桂川と呼ぶ川が――流れている。
 旅のきっかけは、講談師で初の人間国宝になられた一龍斎貞水(いちりゅうさい・ていすい)さんだった。
 修禅寺の本堂で人間国宝の講談師が怪談を語るという、怪談好きな我々夫婦にとって、何とも魅惑的な公演のポスターを妻がどこかで見かけたのは公演前日の昼だったが、幸い修善寺の旅館の部屋が取れて、ぼくたちは身支度もそこそこに出発し、夕方には修禅寺の山門前の足湯に入っていた。

syuzenji2.jpg  その日は、一九一〇年に夏目漱石が修善寺温泉を訪れたのと同じ八月六日で、他愛もない偶然だと思いつつも、漱石の愛読者としては中々に感慨深いものがあった。このとき漱石は持病である胃潰瘍の療養のために逗留していたのだが、次第に病状が悪化し、同じ月の二十四日には「忘れべからざる八百グラムの吐血」をして死線を彷徨い、結局十月十一日まで滞在――というよりは安静のために動けず、帰京後もしばらく入院することになってしまった。
 ただ、漱石は修善寺の日々を後に懐かしく感じていたようで、帰京後に日記を元にして随筆『思い出す事など』を書いている。ある日には旅館の床で、当時アメリカで出たばかりの哲学書『多元的宇宙』A Pluralistic Universeを原文で――漱石だから当然だが――読み終えて、その随筆で「余の病中に、空漠なる余の頭に陸離の光彩を抛(な)げ込んでくれた」と評している。『多元的宇宙』を書いた哲学者ウィリアム・ジェイムズはアメリカの心理学の祖とも言われる人物で、弟はヘンリー・ジェイムズだ。漱石は弟ヘンリーについても同書で「有名な小説家で、非常に難渋な文章を書く男である」と書いている。
 兄ウィリアムは、人間の思考や意識そして主観は論理的に分節化できるものではなく、様々な感情を含む一連の流れなのだとする〈意識の流れ〉という心理学上の学説を提唱したことでも知られ、弟ヘンリーはそれを「ねじの回転」などに取り入れて、人物の内面の時間変化を精緻に描いた。この小説技法を用いると、しばしば話の筋とは無関係な、非論理的な方向に思考が流れていくために、漱石のように「難渋な文章」と感じることもあるけれど、それは同時に人物を多角的に描くことに繋がるし、筋が複雑に絡み合いながら複線化するため、小説内世界は多層化する。だからこそ漱石も、〈意識の流れ〉の技法を『坑夫』などで用いているのだ。漱石は他にも兄ウィリアムの本を修善寺以前から読んでおり、〈意識の流れ〉もヘンリーの小説からではなくウィリアムの心理学書から学んだのだろう。それにしても、重篤な病の床にあっても勤勉な漱石は読書を欠かさなかったのだった。
 『多元的宇宙』における〈宇宙〉というのは、一人一人が認識する世界のことだ。それが集まって一つの〈多元的宇宙〉を形成していると考える。
 これはSFでも同様だろう。多元的なSFが存在するのであって、すべてが一様に融け合うということは決してなく、しかし何らかのメタ的な類似性が感じられるのも確かだ。
 これは、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』において示された〈家族的類似性family resemblance〉という概念によってある程度は説明できるかもしれない。ある一つの家族を考えよう。三人以上の家族であれば――夫と妻は元々は他人なのだし――その構成員全員に共通する、単一の類似性は存在しない。兄弟姉妹のような近い構成員であれば共通の類似性を見出せるだろうが、家族全体はパッチワークのように複数の類似性によって緩やかに繋がり合っている――このような関係をウィトゲンシュタインは家族的類似性と呼んだのだった。
 また、批評家で哲学者のアーサー・ダントーは論文「アートワールド」“The Artworld”において、何がアートなのかを決めるのは――辞書的な定義などではなく――芸術理論から成る環境(an atmosphere of art theory)なのだとして、それをアートワールドと名付けた。
 ダントーはその論文の後半で、アート作品が持つ〈属性〉について議論している。二つの属性AとBを考えると、AかつB、Aかつ非B、非AかつB、非Aかつ非Bという四種類に、作品を分類することが可能になる。さらに新しい属性Cが作り出されると、先の四種類がさらにCか非Cかの二通りに場合分けされるから、二倍の八種類になる。重要なのは、この属性の二倍化が過去の作品にも遡及的に適用されることだ。かつてはロボットSFだと見なされていたものが、ポストヒューマンSFという属性が開発された後は、ロボットSFかつポストヒューマンSFや、ロボットSFかつ非ポストヒューマンSFとして分類されることにある。こうして古典作品もアートワールドも二倍ずつ豊穣化し、様々な属性を類似性として共有する巨大な家族を形成しているのだ。

 四年前の修善寺でぼくたち夫婦がすっかりファンになった一龍斎貞水さんに今回インタビューさせていただいた(以下では貞水先生と呼ばせていただきます)。貞水先生は今年で高座六十年の講談師で、十二年前には重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定されている。講談では史上初だ。
 講談は、落語や浪曲と共に日本三大話芸と呼ばれる。落語は会話が主であり、浪曲は三味線と共に語るが、講談は「話を読む」芸と言われる。
 講談の歴史は古く、明治以前は講釈と呼ばれていたが、これは仏教の教典を解釈して講義したことに由来するという。平安時代末期から存在したとされる琵琶法師は、鎌倉時代には『平家物語』などを通じて仏教の思想を庶民にわかりやすく広めたことから、講談師の起源の一つだと見られている。戦国時代が終わり、戦がなくなって職を失った武士たちが寺社境内で庶民向けに講釈をし始めたといわれ、江戸時代後期には現在のような、釈台という小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)で釈台を叩いて語りに調子をつける形式が確立された。
 「講釈師、見てきたようなウソをつき」「講釈師、扇でウソを叩き出し」という言葉がある。講談は、落語や漫談とも違う独特の間と抑揚をもった語り口によって、どんなに荒唐無稽な話でも本当のことのように聞かせることを旨とする話芸であり、明治時代に全盛期を迎える。
 明治の中頃には講談を〈速記〉して文章に起こしたものが新聞に連載され、一八八九年から一九〇〇年まで落語と講談の速記の専門誌『百花園』が東京金蘭社から発行される。また、明治末から流行した立川文庫(たつかわぶんこ)という叢書は、刊行当初は講談の〈速記〉だったが、講談を書き下ろした〈書き講談〉が中心となり、『猿飛佐助』『大石内蔵助』『宮本武蔵』など二百近い作品が、十年あまりのあいだに出版された。〈速記〉は紀元前五世紀のギリシアでも使用例が発見され、日本で知られるようになったのは明治維新後だったが、一八九〇年の第一回帝国議会から採用された。この〈速記〉や〈書き講談〉は二葉亭四迷などによる〈言文一致体〉の成立にも大きな影響を与えたと考えられている。
teisui.jpg  一九二五年に開局したNHKラジオでも講談は人気を博したが、次第に落語や浪曲が盛んになっていった。貞水先生が十六歳で高座にあがった一九五五年には、東京の講談師は――最盛期に八百人以上だったのだが――二十数人にまで減っていた。きっと若い頃には御苦労もされただろうが、
 「自分が好きで選んだ仕事だったら苦労するのは当たり前でね。若い頃の苦労をとくとくと話すようなやつは良いところで飲んでないよね」
 と笑い飛ばしておられた。
 現在、貞水先生は数多くの公演をこなされていて、この翌日も朝から徳光和夫さんの番組に出演されるということだった。
 インタビューの前には東京郊外の市民ホールで行われた学校公演を取材させていただいた。高校の芸術鑑賞教室ということだった。その前半部で最初に出演された一龍斎貞橘先生は貞水先生のお弟子さんだ。二年前に真打ちになられた。「好男子じゃなくて講談師です」という話の入りから軽快に高校生を笑わせていらっしゃったが、実際はすらりと精悍なお顔立ちの若手講談師だ。
 続いて林家正楽師匠の紙切りの名人芸と、桂文治師匠の『転失気(てんしき)』の巧みなお噺で大いに場が盛り上がって、十分間の休憩となった。ホールの八百の座席を埋め尽くした生徒たちが大人しくしているはずもない。後半部の幕があがる直前まで、引率の教師の方々が静かにするように言ってまわるが、ざわめきは収まらない。
 そこに貞水先生が登壇する。淀みない語りが始まって、ぼくが気付いたときには、高校生たちはもう誰も私語をしていないのだった。
 舞台が終わるとすぐに貞水先生はいらっしゃった。ぼくは先の〈ざわめき〉のことからインタビューを始めた。
 「人間が人間に人間の心をもって話していく。高校生だって十五年生きている人間なんだから、彼らの人間性や立場をわかった上で、向こうとこちらの〈接点〉を作るということだよね」
 貞水先生はさらりとお話しになる。
 「お客さんの気持ちや会場の状況が読めなかったら、プロの演芸家じゃないよね。『読める』というのはプロの条件の一つだから」
 聞き手のことが想像できなければ、人間同士の話にならない。講談師の〈芸〉とは〈想像力〉と不可分のものだ。そこを伺いたくて今回インタビューをお願いしたのだった。
 「講談師は優柔不断だからね」
 優柔不断というのは、話しかけている相手に応じて話を変化させていくことを先生流に表現された言葉だ。先生は続けて、このインタビューも高座の講談と大差はないとおっしゃった。インタビューに慣れていないぼくに合わせていただいたのだと今はわかる。
 「芸は教えるもんじゃない、伝えるもんだ。って、これはうちの師匠の言葉だけどね」
 貞水先生の師は五代目一龍斎貞丈先生だ。貞水先生が真打ちになったときに御礼を言うと、「礼なんか言うな。自分の力で真打ちになったんだから。俺にしてもらったことで有り難いなと思うことがあったら、それをこれからは後輩にしてやりな」とおっしゃったという。
 では師と弟子はどのように〈芸〉を分有するのだろうか。あるいは舞台と客席のあいだで、どのように〈芸〉は分有されるのだろうか。
 このような繊細な部分については自分で考えるべきであって質問するものではないという考え方があり、ぼくもある程度そう思うのだけれど、ここを聞かなければせっかく時間を取っていただいた意味がない。貞水先生は丁寧に答えてくださった。
 「人付き合いとか口の聞き方とか楽屋の作法は教えるわねえ。だけど芸はね。教えた通りにできるっていうなら教えるけど。ウチで稽古をやるとね、今日は腹いてえとか二日酔いだとか言ってね。稽古では芸はやってないですよね。『ネタをつける』って言うんだけど、話の筋を教えることはできる。でも芸は、お客さまのいる前で喋っているのを聞きなさい、と弟子には言ってます。舞台だったらどんなに具合が悪くなったって手を抜かない。芸をやるんだから。我々っていうのはそういう伝え方だよね。一番シリアスなやり方だと思うよ」
 ここには精神論などはない。ウィリアム・ジェイムズが『多元的宇宙』で指摘したように、ぼくたち一人一人が一つの〈宇宙〉として各々異なる世界を認識しているのだとすれば――何を伝え、何を分有(パルタージュ)するにしても――連絡は困難なはずであり、だからこそ〈芸〉はこれほど誠実でシリアスなやり方でなければ伝えられないのだ。

 物理学ではいくつもの多宇宙が提唱されている。
 その一つが相対性理論およびインフレーション理論に基づく多宇宙の概念だ。ぼくが一般相対性理論を教わった佐藤勝彦・現東大名誉教授は、1982年に論文『宇宙の多重発生』“Multi Production of Universes”を書いた。
 宇宙は誕生した後の一瞬のあいだに――10のマイナス36乗秒後からマイナス34乗秒後のあいだに――10の43乗倍に急膨張したと考えられている。それをインフレーションというのだが、そのとき急膨張と同時に、ある宇宙を母宇宙として、その内部とワームホールで繋がった子宇宙がいくつも生まれ、子宇宙からも同様に孫宇宙が生まれ、さらに曾孫宇宙が――と次々に生まれることを佐藤教授は示したのだった。へその緒のごときワームホールは速やかに閉じて、それぞれが独立した宇宙となり、たとえばぼくたちが暮らしている宇宙が母宇宙なのか孫宇宙なのかはとりあえず今のところ知るすべはない。これらの宇宙は――観測方法はさておき――物理的な実体と考えられている宇宙であり、全体としてマルチバースmultiverseと呼ばれることが多い。また、数学上存在する可能性としての宇宙の総体は〈ランドスケープ〉と呼ばれている。こちらのほうはすべてが実在するわけではなく、ほとんどは潜在的に「ありうる」だけだ(このランドスケープという概念を提唱した物理学者の一人、レオナルド・サスキンドは多宇宙のことをメガバースと名付けたけれど定着していないようだ)。
 また、ヒュー・エヴェレットが提案した〈多世界解釈〉というものもある。量子力学によれば、物理状態というものはいくつもの状態が重なり合っていて、観測によって状態の一つだけが確率的に顕現すると考えられている。しかし残りの状態がどうなったのか、観測が状態にどのような影響をもたらしたのか、などは物理学者のあいだでも意見が分かれていて、量子力学の〈観測問題〉と呼ばれる。解決法として主に二つの〈解釈〉がある。  一つはコペンハーゲン解釈と呼ばれるもので、人間が観測するという物理的な行為によって状態が一つに収縮、収束したのだとする。これはただの解釈であって、観測によって状態が収縮するメカニズムが解明されているわけではない。基本的に大学ではこちらの解釈が教えられる。
 そして、もう一つの解釈が多世界解釈だ。重なり合う物理状態という考えを拡張して、そもそも世界全体が重なり合っていると考える。その世界が人間に観測されることによって多世界に分岐する。人間を含む世界全体に量子力学を適用するのだ。こうして分岐した世界同士のあいだに連絡はなく――だから多世界を確認する手立てはなく――観測者には状態が一つに収縮したように見えるだけだ、と解釈するのだ。コペンハーゲン解釈よりも遥かに壮大な解釈で、大学の量子力学の講義では簡単に触れられる程度のことが多いだろうが、物理学者のなかにファンは多い。
 こうした理論は二十世紀後半に出てきたものだ。二十世紀初頭のウィリアム・ジェイムズの〈多元的宇宙〉はあくまで哲学ないしは心理学のもので、物理や数学とはほとんど関係なかった。とはいっても二十世紀になってから〈世界の複数性〉やその〈観測(不)可能性〉についての議論が、様々な領域で盛んになったことは留意しておいてもいいだろう。大航海時代から何百年も経って、ようやく世界の多義性が認識され始めた、と言ってもいいのかもしれない。

(2015年8月5日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



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三村美衣/菅浩江『プリズムの瞳』解説(全文)


ロボットが残した九枚の絵

三村美衣 mii MIMURA


プリズムの瞳
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 今年の一月、千葉県で行われたある合同葬儀が話題となった。
 犬型のエンターテインメント・ロボットAIBOの葬儀だ。AIBOは一九九九年の販売開始から二〇〇六年の生産終了までに、十五万台が世に送り出された。しかしメーカーは、部品の保有期間が終了した二〇一四年三月に、サポート窓口を閉鎖。その結果、AIBOの飼い主たちは、身体に不具合を抱えた愛犬を前に、途方にくれることとなった。シニアエンジニアが中心のビンテージ機器修理工房で、AIBOの修理も引き受けるところが現れたが、既に入手困難な部品もあり、直すことのできない個体も多い。
 そこで行われたのがAIBO合同葬儀だ。この葬儀で弔われたAIBOは、修理待ちの個体の治療や延命のためにパーツのドナーとなるのだ。
 なんという既視感! AIBOと飼い主の精神的な繋がりや、それを救おうとするシニア技術者の姿は、本書に登場する老人ホーム〈曙光の家〉の人々のエピソードと重なるではないか。

 本書、『プリズムの瞳』は、人間とロボットの共存の可能性を探る時代の世情を描いた、連作短編集である。雑誌〈ミステリーズ!〉vol.01(二〇〇三年六月)からvol.19(二〇〇六年十月)にわたって掲載された九本の短編に、ブリッジ部分を加えて、二〇〇七年に東京創元社より単行本として刊行された。
 物語の設定は、ほぼ現代と言ってもよいような極めて近い未来だ。
 長きにわたる研究・開発の努力が実を結び、二種類の人型ロボットが実社会に実験的に投入された。ひとつは、人間の感情を分析し受け応えを行う能力を備えた"感情型"の〈フィー・タイプ〉。もうひとつが、医療や製造、工芸などそれぞれの分野に特化した能力を持つ"専門型"の〈ピイ・タイプ〉だ。しかし、人々に寄り添って癒やしを与えたり、生活を手助けするはずだったフィーは、人間の感情を模すように作られたが故に、様々な誤解や問題を生み、早々に回収・解体されてしまう。そして専門的な仕事を引き受ける道具であるはずのピイもまた、人間の妬みや被害妄想、仕事を奪われるのではないかという危惧など、さまざまな拒絶反応を呼び起こし、結局人間とロボットの共存を目したプロジェクトは、短期間で打ち切られることになる。
 ところがこの計画は、社会に奇妙な遺産を残した。
 それが、絵描きのピイだ。
 一旦、全てのロボットを回収した〈ピイ・プロジェクト委員会〉は、各分野の専門家として作られたはずの〈ピイ・タイプ〉に、「絵描き」という毒にも薬にもならない新たな仕事を与え、再び人間社会に戻した。一・五メートル四方の空間の専有を許されたピイは、各地を放浪し、思い思いの場所でイーゼルを立てて絵を描く。しかし、都会の片隅だろうと、田園風景の中でだろうと、姿勢を崩すことなくイーゼルに向かうピイは風景にいまひとつ溶けこむことがない。愚にもつかない絵描きとなってもなお、ロボットは人々の心をかき乱す。ホームレス狩りのようにピイを襲撃する少年たちや、ピイを壊すことで日頃の鬱憤を解消しようとする人がいる一方で、彼らを心の支えとし、傷ついた身体をなんとか直そうとする老人たちも存在した……。
 本書の根幹をなす二系統のロボットは、菅浩江が長く温めてきたアイデアだ。
 フィーの初登場は、なんと一九八一年にまで遡る。同人誌〈星群〉四十二号(一九八一年五月)に発表した「夏の終わり」がそれだ。デビュー作となった「ブルー・フライト」『そばかすのフィギュア』所収)の直後に発表したこの作品は、アメリカ西部のカントリースタイルの古い家で、家事ロボットのフィーが窓を全て開け放ち大掃除をしている姿から語り起こされる。この家で育った最後の娘が、明日、恋人の元に向かうためにロケットで宇宙に旅立ち、この家から人間はいなくなり、フィーだけが残される。他の家に再就職するという選択肢もあったが、記憶がリセットされることを嫌ったフィーは、いつ帰るのかもわからない主人を待つことを選ぶ。彼女は、翌日、窓辺の椅子に座り、空に吸い込まれていくその夏最後の打ち上げロケットを見送った後、自ら停止ボタンを押して長い眠りに入る。
 当時、高校生だった菅浩江が、レイ・ブラッドベリの「ロケットの夏」『火星年代記』所収)と「初期の終わり」『ウは宇宙船のウ』所収)、「ぬいとり」『太陽の黄金の林檎』所収)からインスパイアされた叙情的なイメージに、ロボットテーマを融合させ、意気揚々と宇宙に旅立つ主人を見送るロボットの誇らしさと寂しさと切なさを、瑞々しい筆致で綴った。原稿用紙にして僅か八枚の掌編だが、SFならではの風景が心に残る作品だ。
 このロボットのアイデアは菅浩江の中で徐々に膨らんでいったのだろう、プロの作家となった彼女はやがて「カーマイン・レッド」〈SFアドベンチャー〉一九九一年四月号初出/『そばかすのフィギュア』所収)でフィーと対になるピイを誕生させ、さらに同じ設定で「ダンデライオン・イエロー」(桃園書房〈小説club〉四十六号 一九九三年十一月掲載)を発表する。そしてその後『永遠の森 博物館惑星』で、モノと人間の関係、美とは、芸術とは何かという問題に、脳科学や先端技術からアプローチし思索を深めた彼女が手がけたのが本書なのだ。
 菅浩江のSF短編は、伝統や芸術や感情を科学で解体し、解き明かしてもなお残る、秘めたる人の情念や心の闇を露呈させる。優しくて残酷で、はんなりといけず。骨の髄まで京女みたいな作風(作風の話ですよ!)が、堪えられない魅力だ。『プリズムの瞳』でも、ピイに感情移入して悲しめれば気持よくなれるのに、随所で彼らが道具でしかないという事実をつきつけてくる。
 しかしピイとの関わりを持ってしまった登場人物たちは、機械だと知っていても、ピイがどう思っているかを気にしてしまう。ピイの瞳を覗きこんだところで、そこにあるのは自分自身の投影にすぎないのだが、それに気が付くことができない。人はたいてい嘘つきだ。必ずしも悪意で人を陥れようというわけではない。悲しみや、苦しみや、捌け口のない鬱屈を抱え、楽になるために自分をも騙す嘘をつくのだ。ところがピイに感情をぶつけると、その反射によって自分の嘘を直視することになる。
 もしピイが四角い機械であったなら、誰もそこに感情を読み取ろうとはしないだろう。これが人型故のマジックだ。電卓の方が計算速いこと、車が人より速いことに不快感を示す人はいない。機械が専門的な処理においては人間よりも力を発揮することを、人はすでに身を持もって経験し、受け入れている。しかし人型のロボットが職場にあらわれ、自分の隣の席で仕事をはじめたとたん人はまるで自分の尊厳が傷つけられたかのような不快感を示しはじめる。ときには、ロボットが人間を凌駕する存在になるのではないかという恐怖からさらにピイを忌み嫌う。その不快感や恐怖はピイになんの責任もないことであり、不当な感情であることも自覚しているだけに、人はますます居心地が悪くなる。
 そしてピイを恨み、自らの感情の醜さに直面できず、彼らを排除しようとする。
 
 単行本化に際して加筆されたブリッジストーリーの謎の語り手は、このピイに対する人々の過剰な反応に警告を繰り返す。
 もし虚飾を剥ぎ取られた自分を否定するのではなく、受け入れることさえできれば、人間もそしてロボットももっと先の世界へと踏み出すことができるのに――と。
 そんなロボットと人間が共存する新しい社会が訪れたときに、人々はこの時代を過渡期として振り返ることになるのだろう。ピイの絵を見て、人間とロボットの歩んできた道を知るのだ。
 そのときようやくピイはその役割を終え、物語は本当の意味で幕を下ろすことになる。

(2015年8月5日)


三村美衣(みむら・みい)
1962年生まれ。書評家。長年〈SFマガジン〉の書評頁でファンタジー欄を担当し、現在は〈冥〉で書評コーナーを担当。著書に『ライトノベル☆めった斬り!』(大森望との共著)がある。



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玉森裕太さん(Kis-My-Ft2)主演で連続ドラマ化! 福田栄一『青春探偵ハルヤ』[2015年8月]



 10月から、読売テレビ・日本テレビ系にて、ドラマ『青春探偵ハルヤ』の放送が始まります。大学生である浅木晴也が警察の力を借りず様々な事件を解決していくストーリーです。
 主人公・浅木晴也を演じるのは、ジャニーズ事務所に所属するグループ・Kis-My-Ft2のメンバーである玉森裕太さん。『信長のシェフ』『ぴんとこな』でも連続ドラマの主演を務め、音楽活動のみならず俳優としても幅広く活躍されています。
 そのドラマ『青春探偵ハルヤ』の原作が、8月に遂に文庫化いたします。

* * *


 浅木晴也は、アルバイトで生活費を稼ぎながら大学に通う貧乏青年。今日も、廃棄でもらった缶詰で何日暮らせるかを計算している、つつましい生活を送っていた。
 そんな彼の許に突然、悪友の和臣が高額報酬付きの相談事を持ちかけてくる。同級生の女の子・能見美羽が誰かに付き纏われているらしいとのこと。高額報酬に目がくらんだこともあり、仕方なく晴也はストーカー退治を引き受ける。
 いざ彼女の部屋のベランダで待ち伏せしてみると、確かにマンションのまわりをうろつく不審者の姿が。ところが、捕まえて声を掛けてみると、どうやら美羽を尾行していたわけではないらしい。事情を聞くと、男は一人暮らしをしている妹と連絡がつかなくて、心配で様子を見にきていた。妹思いの男のことが放っておけず、晴也は女の子の捜索も請け負うことに。
 そのうち、脅迫者との交渉、女子寮の盗撮犯捜しと、晴也のもとには次から次へと芋づる式に厄介事が舞い込んでくる……。

* * *


『青春探偵ハルヤ』は、著者のデビュー作『A HAPPY LUCKY MAN』同様、複数の事件が同時進行していく、緻密な構成になっています。事件解決に奔走する主人公の晴也と同じように、息も吐かせぬテンポに、読む方も引き込まれていくこと間違いなし。また、複雑な構成も軽快な筆致でぐいぐい読ませていく、読み心地の良さも本書の魅力のひとつです。
 ドラマでは、原作を活かしつつ、新しいエピソードも加わるそうなので、また別の『青春探偵ハルヤ』を見せてくれることでしょう。
 小説の「晴也」とドラマの「ハルヤ」、ふたつの『青春探偵ハルヤ』をお楽しみください。


(2015年8月5日)




【2009年3月以前の「本の話題」はこちらからご覧ください】

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