「翻訳のはなし」第4回
「スウェーデン語-英語-スウェーデン語」柳沢由実子
いつから翻訳しているの? と訊かれることがある。わたしは一息ついてから、一九七〇年代の終わりごろからと答える。この質問をする人の中には、私が翻訳を始めた頃にはまだ生まれていなかった人もいる。だから、えー、そんなに長く! と驚嘆してくださるが、じつは本人としては、正直なところ、ついこの間のことのように思えるのです。
スウェーデン語の通訳をしていた私が初めて翻訳したのは『スモン・スキャンダル-世界を蝕(むしば)む製薬会社』(朝日新聞社 一九七八年)でした。当時日本の風土病だとされていたスモン病に対し、日本の風土病などではない、薬の中毒症である、スウェーデンにもこの薬害症例はあると日本の法廷で証言し、裁判で患者さんたちを決定的な勝利に導いたスウェーデンの小児科医オッレ・ハンソン氏の告発書です。私は通訳をしながら世界的な巨大製薬会社に対してたった一人で立ち向った氏の正義感と勇気に感動し、ビヤネール多美子さんと一緒にこの本を訳したのを昨日のことのように憶えています。この本がきっかけで、翻訳の仕事をすることになったのでした。
次に訳したのは『スウェーデン女性解放の手引』(家政教育社 一九七九年)。スウェーデンのウーマンリブ活動家の女性二人が書いた実生活における男女平等のための手引書です。まさに目からうろこ。ページを開くたびに、そう、その通りよ! と膝を叩き、頷いたものです。当時の日本のテレビコマーシャルに〈わたし作る人、ぼく食べる人〉というラーメンの宣伝文句がありました。一九七五年に始まった国際女性年後、日本でも男女の固定的性別役割分業を見直す動きが始まっていたときにこんなコマーシャルを臆面もなく流すあまりの無神経さに、日本の女たちが抗議のデモを行なった頃のことです。男女平等の先進国スウェーデンでは性別役割分業をどう是正しているのか、という問いに答えてくれた本でした。この本には各章に「あなたが今日から実行できること」という項目があり、例えば「大人なら性別に拘(こだわ)らず身の回りのことは自分でできるのは当然という基本的姿勢を持つこと」とサラリと言い切る。実践的な男女平等指導書で、訳すのは実に痛快でした!
翻訳三作目は英語で、アメリカの黒人女性作家アリス・ウォーカーの『カラーパープル』。私はまだ翻訳家としては駆け出しでしたが、この本を読んで感激し、翻訳したいと集英社書籍出版部に申し入れたのでした。たまたま集英社さんは版権を獲得していて、私は『カラーパープル』を訳す幸運に恵まれました。ハードカバーで発売されたときの『紫のふるえ』という書名は、のちにスピルバーグ監督が『カラーパープル』として映画化したので、文庫版の書名も原本通り『カラーパープル』になり、安堵したのを憶えています。
英語の本は他にドロシー・ギルマンの『おばちゃまは飛び入りスパイ』シリーズ、アニー・ディラードの『本を書く』、アウンサン・スーチーの『自由』、ナディン・ゴーディマの『ジャンプ』など、いろいろな出版社さんから刊行していただきました。現在まで私が訳した本のおよそ三分の二は原本が英語で、そのほとんどが女性作家の作品です。
女性作家の本を女性翻訳者が訳すのと男性翻訳者が訳すのとは、翻訳に違いが出るでしょうか? 男性作家の本を女性翻訳者が訳すことにも同じ問いかけをしたい。性の違いによって、気づかぬバイアスがかかったりしていないか。これは別の機会に他の翻訳者さんや読者の方々と一緒に考えたい問題です。
大きな変化があったのは二〇〇〇年に東京創元社さんからスウェーデン人作家ヘニング・マンケルの刑事ヴァランダー・シリーズの第一作『殺人者の顔』の翻訳を依頼された頃からです。それまでもノルウェーの作家アンネ・ホルト、スウェーデンの作家カーリン・アルヴテーゲンの作品などスウェーデン語からの翻訳はしていましたが、ヴァランダー・シリーズをきっかけに、スウェーデン語からの翻訳が主になりました。もう一人、アイスランド人作家アーナルデュル・インドリダソンのエーレンデュル・シリーズも六作品スウェーデン語から訳しています。最新作は今年五月に刊行した『印(サイン)』。現在はマンケルの『イタリアン・シューズ』の続編で彼の遺作『スウェーディッシュ・ブーツ』(仮題)を翻訳中です。ご期待ください。
【編集部付記:『スウェーディッシュ・ブーツ』は2023年4月に東京創元社より単行本で発売されました。】
■柳沢由実子(やなぎさわ・ゆみこ)
1943年岩手県生まれ。上智大学文学部英文学科卒業。ストックホルム大学スウェーデン語科修了。主な訳書に、インドリダソン『湿地』『緑衣の女』『声』『湖の男』『厳寒の町』、ヘニング・マンケル『殺人者の顔』『目くらましの道』『北京から来た男』、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官』、ドロシー・ギルマン『悲しみは早馬に乗って』、アリス・ウォーカー『勇敢な娘たちに』、カーリン・アルヴテーゲン『満開の栗の木』などがある。
この記事は〈紙魚の手帖〉vol.06(2022年8月号)に掲載された記事を転載したものです。