Web東京創元社マガジン

〈Web東京創元社マガジン〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈るウェブマガジンです。平日はほぼ毎日更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

【特別掲載】佐々木俊介『仮面幻戯』第5回(最終回)(3/4)[2010年7月]




    11月23日

 約束どおり「あの男」がやってきた。
 鉄仮面と黒衣に身を包んだ長身の俺を、奴は薄気味悪そうに見上げた。
 藤江、久しぶりだな、と、曖昧な笑みを浮かべながら奴はいった。
 俺は苦しげに喉を鳴らし、白手袋の右手を挙げて応えた。
 この部屋に腰を落ち着けたのち、昨晩電話で持ちかけた計画を再度俺は打診した。計画とは、能登新月をおびき寄せて、二人がかりで始末してしまおうというのだ。死体は裏庭に掘った穴に埋める。枯葉の降り積もる樹々に囲まれた庭。大丈夫、見つかりっこない。
 そもそもすでに裏庭には……いや、それはまたの機会に書くとして、結論からいうと、「あの男」は計画に手を貸すことをあっけなく承知した。提示した報酬がものをいったのだ。奴の口もとから笑みが消えることはなかった。所詮金がすべての男だ。外車でも買うつもりか、それとも獲らぬ狸の皮算用、さっそく写真館をより豪華に改築する青写真でも描いているのか。
 静まり返った部屋、俺たちは聞く者とてないのに声を潜め、能登新月殺害の算段を始めた。
 金だけの男とはいえ、俗物は俗物なりに「あの男」にもユニークなところがあって、じつに突拍子もないアイデアを用意してきていた。
 どうせ殺してしまうとはいえ、万が一の場合を考えて、顔を見られるのはまずいというのだ。そこで奴が編みだした趣向が、俺などはすっかり忘れていた「影百合」の再現だった。
「影百合」……黒耀座の舞台役者、沼田欣児の化身。あの異様な姿を目にしたのは高校生の時分に一度きりだから、いかに強烈な印象を受けたとはいえ、むろんそっくりそのままというわけにもいくまいが、「あの男」は嬉々としてみずから仮面を拵【こしら】えるという。それをかぶって素姓を隠そうというのだ。これには顔を見られぬようにするだけでなく、現在どこで何をしているかも知れない沼田欣児に疑惑の矛先を向ける狙いもあった。
 沼田は藤江恭一郎と同様、一九〇センチを超えようかという長身痩躯の男だった。三〇センチ近くも背が足りないにもかかわらず、「あの男」は「影百合」こと沼田欣児に化けようというのだ。背の低い人間が長身を装う……何を隠そう、十年前の事件もそこにすべての秘密があったので、この提案を聞いたとき、内心俺はひやりとしたが、幸い奴は己の着想にご満悦で気づかぬようだった。
 ともあれ、そうと決まれば能登新月を呼びだす段取をしなくてはならなかった。もちろんそれは俺の役目だ。
 進捗があり次第、改めて連絡することを伝えて「あの男」を見送ったのは、つい一時間ほど前のことだ。


    11月24日

 今夜、白石光の携帯に「あの男」から電話があった。
 ゆうべ藤江に会ってきたといい、そこで交わされた内容については秘密だという。ほくそ笑むような声調子は、藤江恭一郎に信頼されているのはお前ではなく俺なのだと暗に語っていた。
 馬鹿な男。
 窮鼠却って猫を噛むということを知らないのか。
 無間の苦しみ……すべての元凶は、早見、お前なのだ。


    11月26日

 是璃寓のマスターに能登新月宛の手紙を預けてきた。
 十二月一日夜十時、この邸への招待状だ。
 思いもよらぬ色よい返事を前にして、彼はいったいどんな顔をするだろうか。
 あの青年なら、期待を裏切ることなく伝言を受け取り、暗く恐ろしい迷路も易々と通り抜けて、首尾よくここまで辿り着けるはずだ。ふいに目の前に現れた好奇心旺盛な年少の友。君を待ち受けているのはさらに恐ろしい結末だ。心からすまないと思う。が、俺が同情を寄せるのもおかしな話だ。
 早見篤にもさっそく知らせておかねばならない、「影百合」に変身する準備もあろうから。
 それから是璃寓のマスター。愉しい時間をありがとう。もはやあの狭い階段を下ることも、安酒のキープボトルを傾けることもない。
 もうじき俺の二重生活も終わる。


    12月2日

 俺はあの青年を殺せなかった……。
 ゆうべの出来事をどこから記せばよいだろう。
 夜十時、注文どおり能登新月がやってきた。庭の暗がりには「影百合」の早見篤が隠れている。あいつときたらすっかりゲーム感覚なのだ。俺は玄関の沓脱で、ドアを細目に開けて待機していた。
 いよいよ「影百合」がその邪悪な姿を現す。突如出現した長身の怪人に、青年はさぞや胆を潰したことだろう。
 どちらが手を下すかは決めていなかったが、青年に一撃を加えたのは早見だった。したたかに頭を殴られ、手もなく気絶した能登新月。その体を足もとに見下ろして、早見篤は俺にとどめを刺すよう求めた。最後の一線だけは、みずからは手を汚さぬというわけだが、もとよりそれは俺が遂行しなくてはならない行為だった。
 だが、ここに至って俺の心にためらいが生じた。けっして怖気づいたわけではない。柄にもない仏心、それとも違う。上手く説明できないが、あのとき俺のなかで計画は大きく軌道修正されたのだ。
 軌道修正……思えば以前、俺は本手記のなかでその可能性に触れていた。この計画は「上手くいけば一石二鳥、状況に応じて軌道修正もできる試み」であると。できるかぎり自分の気持ちに沿う結末を。早い段階で、すでに俺は針の振れる向きをぼんやり予測していたのかもしれない。
 倒れる直前、至近距離で対峙した際の能登新月の表情。月明かりの庭で彼の眸に映っていたのは、むろん俺の顔ではなく、十七歳当時そのままの彼の姉さんの微笑だ……。
 もうやめよう、もう終わりにしようと俺は思った。
 突っ伏した青年を挟んで立つ「影百合」の扮装の異様さは、からくりを知っている俺から見ても凄まじかったが、幸いにしてこちらも表情を読み取られることのない恰好だ。さりげないふうを装って、俺は早見篤に、こいつはあとで始末して裏庭に埋めておくと伝えた。裏庭に掘られた深い穴を奴は前もって確認していたから、俺の言葉を疑わなかった。殺害計画を持ちかけたのはこちらなのだから、よもやその俺が翻意するとは早見も想像だにしなかっただろうし、そもそも青年を生かして帰すことには何のメリットもない。俺がそんな愚行を犯すとは思わなかったのも当然だ。
 しかし実際には、真夜中、俺はぐったりした青年を背負って井の頭公園まで運び、人目につきそうなベンチに横たえて帰ったのだ。道のりは長く、えらい苦労をしたが、道中人と会うことはなく、青年も目を覚まさなかった(本当に死んでしまったのではないかと幾度も疑ったが、彼の体は温かだった)。もしも途中で青年が意識を取り戻していたら……そのときは俺もどうしていたかわからない。
 俺は能登新月を殺せなかった。
 それでいい。
 俺が殺すべきは彼ではない……。
 ともあれ、あの青年を生かして帰したことで、俺の運命はいよいよ決定づけられた。


    12月5日

 この数日、能登新月の再訪があるのではないかと覚悟を決めて待っていたが、彼はいっこうに姿を見せなかった。
 まさかあのまま帰らぬ人となってしまったのではあるまいか。あるいはそこまでいかずとも、重傷で入院している可能性はある。もっとも、一時的に昏倒させられはしても、大ごとになるような殴り方とも見えなかったが。
 平穏とはほど遠い、不気味な凪の日々が続く……だが、このままで終わるはずはないのだ。
 事態は近いうちに必ず動きだす。
 俺はそのときを待っている。

 過去はただ思い出に変わるだけの存在だと、或る時期まで俺は信じこもうとしていた。しかし、そうではなかった。過去は時として現在に牙を剥き、未来すら獰猛に噛み殺す。たとえこの先にどんな暗い前途が待ち受けていようとも、過去というのはそれ以上に恐ろしい存在なのだ。なぜなら、いかに藻掻こうと、いかに泣き縋ろうと、それはけっして消し去ることも変容させることも叶わないのだから。
 考えてみれば、あの日あの瞬間に端を発し、今日この日まで続いてきた俺の苦悶、これすべて、過去から現在、そしてまだ見ぬ行く末に向かって伸びつづける長い影のしわざではないか。闇さえも透過して伸びる過去の影法師。そう、過去こそが真の軛なのだ……。
 去る九月の終わり、俺は一通の手紙を受け取った。そこには、十年前に起きた或る殺人事件の顛末……いまだ公にされていない真相が記されていた。手紙の送り主は当時の事情に通じた人物で、ただ俺一人に読ませたいがためにそれを書き綴ったのだ。
 男はすべてを看破していた。俺は真正面から自身の罪を突きつけられ、あえなく彼の掌中の鳥となった。だが、唯一、彼の知らないことがある。俺が相当な代価を払って身の安全を購【あがな】ってきたという事実だ。仮に彼がそのことを知ってくれていたら……いや、それでも一緒だ。だからといって俺の罪が消えることはない。過去を消し去ることなど誰にもできはしないのだ。
 もう何度読み返したか知れない告発文を、今夜もまた俺は机の抽斗から取りだして目を通す。  いまとなっては、この手紙を真に必要としているのは能登新月ではないか。


    12月11日

 いよいよ歯車が回りだした。
 いまさっき早見篤から電話があり、昼間、能登新月が店に来たといった。奴にしては珍しくうろたえており、また、ひどく苛立っていた。何がどうしてそうなったのか、わけがわからないようだった。
 不穏な凪の状態は思いのほか長く続いたが、能登新月が早見の写真館を訪ねようとは意外だった。彼は勘づいたのか? どうやって? それともただの偶然だろうか。
 いずれにしても無事であってくれてよかった。
 受話器越しに詰問する早見に、俺は先夜手違いがあったことを伝え、明晩もう一度ここへ来てくれるよう要請した。
 奴は必ず来る。
 そうしないと自身の身が危ういからだ。


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【特別掲載】佐々木俊介『仮面幻戯』第5回(最終回)(2/4)[2010年7月]




    11月4日

 そう、俺は界隈で狂人として通っている。しかし、イカレていると周囲に思わせておくのは、一面ではなかなか好都合でもある。なぜならそれは、地域のなかで俺の存在が揺るぎなく一つの位置を占め、ひいては人々に認知されている証でもあるからだ。
 この邸を知る者はごく少ないが、彼らにしても、いまではもうすっかり稀薄になった好奇心と、憐れみと、それからいくぶんかの懼れをもって、遠巻きに、さりげなく、この風変わりな存在を意識し、時に囁きあいつつ、それでいて、あちらから接触してくることはついぞないのだった。俺は頭のおかしい、かわいそうな芸術家……そっとしておいてあげましょうというわけだ。
 ところで、いまでこそお墨付きを得ているものの、初めのうち、こちらの異様な風体は、不審人物として地元警察の注意を強く喚起したらしい。当然といえば当然だ。そもそも警察には、俺がこの家に移るずっと以前から、当方の動静を把握しておきたい或る理由があったのだけれども、それについてはいずれ日を改めて書き記すことになろう。
 さて、近隣で最も栄えている街といえばご存じ吉祥寺だが、むろん俺が人混みのなかを大手を振って闊歩するなどありえない話だ。のこのこ出ていって騒ぎになっては困るし、いきなり黒装束の鉄仮面と鉢合わせして卒倒でもされたら敵わない。物好きな男の仮装とでも受け取ってくれたらいいが……いや、だが、意外とそれで通用しそうな気がしないでもない。
 ともあれ、俺はなるべく出歩かないようにしているし、食料や生活用品も決まった店に配達してもらうことが多いのだが、困ったことには、あの吉祥寺の井の頭公園を真夜中にふらつくのが、俺にとって唯一の息抜きなのだ。
 あそこは季節によっては遅くまで人けがあるし、夜も明けやらぬ早朝から散歩やジョギングをしている者も見受けられる。それでも広い公園のことだから、人目につきにくい場所はいくらもあって、眠れぬ夜、俺は無聊と鬱屈をみずから慰めるため、こっそり家を抜けだしてはさまよい歩く。なかにはそんな姿を垣間見て、幽霊か何かと勘違いした人もいるのじゃなかろうか。もっとも、そういうときの俺は闇に乗じ、闇に紛れ、闇と同化しているから容易には見つかるまいが。あるいは白い手袋だけがふわふわ宙を漂っているように見えたかもしれない。
 俺の歩みは老人のように緩慢で、野生動物のように慎重だ。深海の底のような静寂。俺は頬をじかに撫でることのない風を感ずるべく感覚を研ぎ澄まし、夜気の匂いを嗅ぎとろうと努める。遊歩道の途中でふと空を振り仰げば、限られた視界のなか、頭上を覆った樹々の梢は闇にあってなお黒く、まるで夜空に刻まれた無数の罅割れのごとく錯覚された。なぜかしらその光景は、決まって俺を悲しくさせ、また、不可視の物の怪に背後からまといつかれるような不安を呼び起こすのだった。
 あれこれ書いたが、一言付け加えるなら、俺は何もここに住んでいること自体を秘密にしているわけじゃない。ただ、余計な穿鑿をせずに放っておいてもらいたいだけなのだ。


    11月10日

 この部屋で過ごす俺の前には、鬱々とした時間だけが果てもなく連なり、真っ黒な不安の塊が、じわりじわりと心を圧迫していくのが手に取るように実感された。ここには俺の心を愉しませるものは何もない。テレビもなければ音楽もない。書物もない。作りつけの大きな書棚は空っぽのまま、降り積もる埃だけが日々厚くなってゆく。
 俺は怯えている。四六時中、怯えている。何より恐ろしい存在が、皮肉なことに常に身近についてまわる。
 鉄仮面。その美しい顔が、その涼やかな微笑が恐ろしい。十七歳の少女の顔が俺を告発する。断罪する。
 仮面は俺にとっての軛【くびき】なのだ。この仮面に俺は囚われ、この仮面に俺は生かされている。死ぬまで俺は仮面から逃れることができないだろう。
 風に震える木立の葉ずれ、枝々の軋み、それ以外、昼夜を問わずしんと静まり返った暗がりにいると、じつに奇妙な夢ばかり見る。多くは悪夢だ。悪夢……悲しい夢といったほうが当たっているか。身を切られるようなせつない夢だ。
 この部屋にベッドはない。ソファの上で目覚めると、枕がわりのクッションは決まってじっとりと湿っている。俺はフロアスタンドの微光のなかで目を見開き、直前の夢をうっそりと反芻する。そうしてしばしのち、改めて長々とぶざまな嗚咽を漏らすのだった。
 友よ、常にわが傍にある友よ。
 ただお前だけがそんな俺の浅ましいすすり泣きを耳にし、その涙のわけを知っている。


    11月17日

 困ったことが起きた。
 思わぬ形で運命が暴走を始めた……嫌な予感がする。
 予感……いや、そんなあやふやな表現では済むまい。
 困ったことになった。
 ゆうべ、一人の青年に会った。能登新月。十年前に死んだ能登七海の弟だという。突然の出会い。偶然めかしてはいたが、本当のところはわからない。しかし、藤江恭一郎の名が出たときのあの青年の驚愕……たしかにあれは真実らしく見えた。
 十年前というと、能登新月はまだ子供だったろう。当時の経緯について、彼の記憶、認識は曖昧なようだった。だが、彼は「黒百合番太郎」の名を知っており、藤江恭一郎に会いたいといったのだ……。
 さて、これからどうしたものだろう?
 ゆうべからずっと俺は迷いつづけている。「あの男」に報告するべきか? しかし、それが必ずしも良い結果を生むとはいいきれない。まだだ。もうすこし様子を見たほうがいい。
 夜ごとの悪夢は悩みの種だが、とうとう俺はその眠りさえ奪われてしまった。


    11月21日

 すでに日付は変わったが、今夜(二十日夜)、ふたたび能登新月に会った。どうやら先日来、俺が来るのを根気強く待ち伏せしていたらしい。
 俺も俺で、是璃寓【ゼリグ】になど足を運ばなければよいものを、あそこのカウンターでグラスを乾す機会もあと何度だろうと思うと、ついつい未練が先に立ってしまう。いや……それ以上に、何とも奇妙なことだが、俺は心のどこかでもう一度あの青年に会うことを望んでいたのかもしれない。
 危険な存在。運命を左右する男。問題はその「左右」で、どう転んでも俺は救われない身だ。ゆえに、まかり間違って能登新月が現在の軛から解き放ってくれはしまいか……そんな虫のいい期待をかけていなかったとはいえない。まさしくアンビバレントな心理というしかないが、青年がまた一風変わった男で、妙な魅力がある。その印象が俺に危ない橋を渡らせたようにも思う。
 彼から逃げ遂せることは容易だった。いや、何も過去形で書くことはない。いまからだってそれは十分可能なのだ。要するに、まだまだこちらに分があると踏んだ上でのいやらしい行動というわけだ。
 その結果、俺は能登新月とずいぶん話しこむことになった。十年前の事件についても詳しく聞かせてやったが、真相を明かさなかったのはいうまでもない。
 青年は、彼の姉を殺したのが藤江恭一郎だと確信したようだった。一方、俺は友人を庇う素振りを見せつつも、決定的なところははぐらかしつづけた。
 初対面から数日のあいだに吉祥寺の工房にまで侵入していた青年は、もうどうしても藤江恭一郎と対決しないことには収まらないふうだった。お坊っちゃんらしい外見に似ず、その目的を遂げるためなら彼が手段を選ばないだろうことを俺は見て取った。そこで、明確な拒絶はせずに含みを持たせておくことにした。すべてはこちらの肚ひとつだ。工房は見つけだせても、彼が自力でこの邸に辿り着くのは至難の業だろう。
 能登新月という駒をどう動かすか。
 最良の策をじっくり練らなくてはならない。
 時間はある。


    11月22日

 日曜の午後。
 ゆうべからずっと考えていた。ずいぶん迷った。
 いずれにしても因って来【きた】る結果は同じなのだ。とすれば、何もわざわざ能登新月の要求を満たしてやることはない。だが、こちらの負い目はさておいて、どういうわけか俺はあの青年が嫌いではない。あれは子供だ。好奇心いっぱいで、怖いものなしの子供。どうしても俺の仮面を剥ぎ取りたいらしいが、お生憎さま、仮面の下に顔なんかないのだ。
 いまの自分の気持ちを、俺は正しく表現できない。
 これから始まる新たな生活。だが、すでに俺は疲れきっている。この十年、みずから命を絶つ勇気があったらと何度思ったか知れない。もう俺は楽になりたいのだ。
 選択肢は多くない。その一つ。この部屋で能登新月と対面すること。
 仮にそうなったとしてみよう。彼は俺に向かって何を語り、何を問いかけるだろう? おおよその想像はつくけれども、そのくせ俺は、彼とのやりとりを現実としてイメージすることができない。まだ見ぬその場の光景は、まるで舞台の一場面のようだ。俺は二人芝居の一方の演者である。シチュエーションだけはどうやら決まっているが、台本に台詞はいっさい書かれていない。俺はそこで何を演じ、何を話すだろう?
 わからない。俺は自分が何者なのかがわからない。自分が現実を生きているのか虚構を生きているのかがわからない。
 待て。こんなことではいけない。
 すこし冷静になったほうがいい。接触の仕方を熟考しなくては。
 やり方は二通りある。俺はいまその狭間で揺れている。一つは、洗いざらい彼の前で告白してしまうことだ。そしてもう一つは……だが、こちらもなかなか難しい。非常に危険な賭けだ。
 いずれ因って来る結果は同じ……とはいえ、あの青年にすべてを曝すのは、たぶんいまではない。いまはまだ、そのときではない……。
 焦るな。拙速は禁物だ。二通りといわず、ほかにも手はないか考えることだ。もっと、もっとよく考えてみなくてはいけない。
 デウス・エクス・マキナ。
 この期に及んで、俺はまだ、俺にとって都合のいい神の降臨を望んでいるらしい。恥ずべきことだ。愚かしいことだ。
 机の抽斗にしまわれた一枚の写真が俺の心を責め苛む。
 過去は暗く長い影を曳く……。
 友よ、常にわが傍にある友よ。
 俺は確実に破滅へ向かっているね?

 じっくり策を練るつもりだったが、どっちつかずの状態は神経を疲弊させた。こうしているあいだにも、あのせっかちな青年が思わぬ次の一手に打って出て、がらりと状況を変えかねないという危惧もあった。
 そこで先ほど、夜九時すぎに、俺は心を決めて行動を起こした。公衆電話から「あの男」に電話をしたのだ。あえて携帯ではなく自宅にかけたのは、それが昔から変わらぬ番号だからだ。
「藤江恭一郎」だと名乗ると、予想どおり「あの男」はひどく驚いていた。長らく音信不通の間柄だったのだから当たり前だ。俺は三年前に負った重傷のいきさつから現在の所在まで、途切れ途切れに語り聞かせた。十年前とは似ても似つかぬ苦しげな掠れ声も、爆発事故の影響なのだ。
 電話で俺が「あの男」に持ちかけたのは、能登新月殺害についての相談だった。
 突如現れた能登七海の弟。
 姉を殺した犯人を藤江恭一郎と見定めて、十年越しの復讐を果たすべく俺をつけ狙っている……。
 しばらく身を隠していたがもう限界だ、と俺はいった。このままでは殺される、返り討ちにするため手を貸してほしいと。
 白石にも話したのか、と「あの男」は訊いた。
 小心者の白石では頼りにならないと俺はいい、できるだけ少人数でことを済ませたいのだと答えた。助太刀の報酬として提示したのは、死んだ父親の遺産の一部と、手もとに残っていた作品を売り払って作った金だ。
 しばらく黙ったあと、明日の晩、直接会って話そうと「あの男」はいった……。

 ゆうべから決めあぐねていたこと。
 能登新月に一切合財を打ち明けること。能登新月を殺してしまうこと。「あの男」に相談すること……。
 能登新月にすべてを告白した場合、当然俺は破滅する。これまでの苦労も水の泡だ。いっそ懺悔して、彼の温情に縋ってみるか。彼は変わった男だ。上手くいけば味方に取りこめるかもしれない、そんな気さえしてくる。だが、いくら何でも姉の死の真実を知って不問に付すほどお人好しではあるまい。
 一方、彼をここへ呼んで葬り去った場合は……いやいや、そんなことが上手くいくとはとうてい思えない。ことはより重大になり、罪を重ねた俺は幾層倍の業火に身を焼かれることになろう。
 では、「あの男」に頼るのはどうか? 俺の罪が満天下に曝されるのは、奴にとっても旨くないはずだ。奴なら何らかの打開策を思いつくのではないか。だが、それはあくまで「あの男」自身の保身のための策に過ぎないのだ。奴は簡単に俺を切り棄てるに決まっている。いつもの皮肉な笑みを浮かべながら、俺の耳もとへ、たった一言「死ね」とささやくに違いない。
 こうした迷い、逡巡の果てに、俺は或る「奇手」を実行することにしたのだ。上手くいけば一石二鳥、状況に応じて軌道修正もできる試みで、考えうるかぎりリスクもいちばん少ないはずだ。
 いずれにせよ、早晩俺は破滅する。その時期を先延ばしするためだけに、俺は苦痛を伴う延命療法をみずからに施しているようなものだ。
 俺には味方がいない。
 俺は一人だ。
 友よ、友よ、常にわが傍なる――。
 俺は仮面の下で血の涙を流している。
 能登新月と出会わなければよかった。


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【特別掲載】佐々木俊介『仮面幻戯』第5回(最終回)(1/4)[2010年7月]


蜃気楼のごとく消えた謎の芸術家、藤江恭一郎。
彼の手になる仮面をめぐり各地で事件が頻発する。
仮面づくしの連作短編ミステリ。
仮面幻戯






   前口上


 吉祥寺駅の南口から井の頭公園を通り抜けて低い土手を上ると、碁盤の目に路地の入り組んだ品のよい住宅街が広がっている。住所でいうと、このあたりは三鷹市井の頭である。これを西へ向かえば、知らず識らずにまた広大な井の頭公園に呑みこまれることになり、所は武蔵野市御殿山と変ずる。一般に「武蔵野」の響きからイメージされる雑木林は、吉祥寺周辺ではこの御殿山の公園敷地内に美しい姿の大半を留めるのみだが、じつは吉祥寺通りをくだって自然文化園を過ぎた先の目立たぬ一角にも、丈高な雑木林の残る秘密めいた土地がある。
 その小暗い木立のなか、いかにも人目を避けるような風情で、ささやかな洋館が潜んでいるのだった。白壁にフランス瓦の赤い三角屋根をいただき、周囲の環境も相まって、どことなく別荘然、四阿【あずまや】然として見える一軒家である。この淋しい家の存在を知る者は少ないが、さらにそこの住人、全身を黒衣に包み、鉄の仮面をかぶった異様な人物については、近隣の住民ですら見かけた者は稀であろう。

 すこし前、藤江恭一郎という若き芸術家がいた。
 知名度は低く、発表作品も多くないが、独特の個性を持つ仮面作家として一部で評価の高まりつつあった青年だ。
 藤江が作品づくりに好んで用いた素材、それが鉄である。鍛鉄【ロートアイアン】。コークスを焚いて鉄を熱し、ハンマーで叩きのめし、火花を散らしてバーナーで焼き切る。やがて最後の工程において表面を埋め尽くす点描のごとき鎚目【つちめ】は、冷たく硬い鉄仮面に命を吹きこみ、あたかも人肌と見紛うほどの質感さえもたらすのだった。
 仮面作家としての藤江恭一郎の活動期間はごく短かった。工房における不幸な事故が、彼の芸術家生命を奪ったのだといわれている。
 ところで、蜃気楼のように姿を消したこの若き芸術家に関し、以前からまことしやかに囁かれている噂があった。
 いわく、藤江恭一郎の手になる作品には呪いが籠められているとの一種の怪談で、いかにも眉唾ものの話だが、事実、彼の生みだした仮面にまつわる奇怪な出来事が、さまざまな場所でたしかにいくつも起こっていた。


 最終話 軛(くびき)



    11月2日

 友よ。いつ何時も、常にわが傍【そば】にある親しげな友よ――。
 おそらくは締めくくりの言葉もまたお前への呼びかけで終わるはずのこの仮面の告白を、俺はいま、ためらいつつもようやくこうして綴りはじめた。以降、本手記中において、俺はただの一言も嘘偽りを書かぬとここに誓おう。
 冒頭、回顧してみるに、今日まで俺が生きてきた二十九年の歳月は、そっくり誤りであったと認めざるをえない。俺は道を踏み誤った。許されざる罪を犯し、挙句、一度きりの人生を無残な失敗に終わらせようというのだ。いや、それともまだ起死回生の一手は残されているのだろうか? デウス・エクス・マキナ。しかし、この期に及んでそれはけっして願ってはならない過ぎたる望みだ……。
 俺がこの手記を綴っているのは、小暗い雑木林に潜む赤い三角屋根の一軒家である。元の持主であった老人は知る人ぞ知る名ヴァイオリニストだった。名を記す必要はあるまい。天涯孤独の身の上で、たいへんな変わり者で、趣味で油絵を描き、しなやかな黒猫を飼っていた。
 或る日のこと、彼は理由も定かでないままに、多くの書物やレコード、それから高価なヴァイオリンと自作の絵画をことごとく焼き棄てると、唐突に首を吊って死んでしまった。
 彼という人物を偲ぶよすがを徹底的に消去した上での死。それはまさにこの部屋での出来事だった。
 孤独な音楽家の訃報は新聞にも載ったらしい。彼は現世に名を留め、当人には使い途がなかったと思われる財産を残した。遺志により、貯金は全額、複数の慈善団体に寄付された。黒猫は知らぬまに姿を消し、いまだに行方不明らしかった。そして、唯一手つかずで残されたこの邸に関し、意外なことに遺書の最後にこう記されていたのだ。
「若キ畏友 藤江恭一郎君ニ 自宅ヲ 譲ル」
 それで俺はここにいるわけだが、本音をいうと一部屋だけあれば十分だった。
 八畳の書斎。スタジオもありアトリエでもあったこの部屋で、死せる男は心の赴くままに本を読み、ヴァイオリンを奏で、朗々と詩を詠いながら油絵を描いていたという。
 天井付近には、まるで芝居小屋かライブハウスのように黒塗りの鉄パイプが格子状に渡してある。スピーカーや照明器具を吊るしていたその鉄パイプに、彼は最後に自分自身をぶら下げたのだ。端【はな】からそんな終焉を見越した上で家を設計したとも取れそうだ。本当のところはわからないが、いずれにせよ変人だったのは間違いない。
 この部屋に置かれている家具には、生前音楽家が使っていたものと、あとから持ちこまれたものが混在しており、後者の素材には例外なく鉄が用いられていた。
 例えば、いま俺が手記をしたためている卓上の電気スタンド。これには鉄片を巧みに重ね合わせ、大賀蓮の花をかたどった独創的なシェイドが付いている。また、背後の壁に立てかけた姿見。鏡面の四辺を縁取っているのは、意図的に粗い焼き肌を露にした鉄骨だ。
 ソファセットの脇には、古美仕上げの細い鉄柱を有した背の高いフロアスタンドがあり、オリエント調の枠飾りに彩られた薄緑色のガラス越し、淡い光が柔らかに周囲を照らしている。ガラス板は細かな気泡を含んでおり、透過光は夢のように美しかった。
 シェイドも、姿見も、フロアスタンドも、一寸見には気づかないが、それぞれ目立たぬところに「Fujie」の刻印が深々と穿たれている。実用品であり芸術作品であるこれらの品を、俺は心の底から愛し、同時に激しく嫌悪していた。
 さらにもう一品、この部屋には鉄細工の芸術作品が存在しているのだが、それについてはまたあとで書くとしよう。
 十一月に入り、いよいよ秋も深まってきた。机の前には窓があり、臙脂色の分厚い遮光カーテンがかかっている。開かれることのないそのカーテンの向こう、真夜中の窓外では、いまこのときも音もなく枯葉が舞い散っているのだろう。
 ずいぶん前から天井の螢光燈が切れているため、明かりの届かぬ部屋の奥は冷たい闇に溶けている。机に向かう俺は、折に触れて振り返り、目を凝らし、その闇を透かし見る。
 友よ、わが傍なる友よ。
 お前はいつもそこにいて、じっと無言でうずくまり、同じようにこちらを見つめている。


    11月3日

 こうしてまとまった文章を書くのは学生時代以来だ。
 昨日の記述を読み返してみて、室内の様子を語るより先に、やはり自分自身のことから始めるべきだったのかもしれないと、いまになって思い直したりしている。しかし、いざ取りかかろうとしてみると、われとわが身を描写するのはなかなか難しいものだ。ゆえにここだけは、すこし気取ってこんな書き方をしてみたい。

 ……深夜、その部屋の空気は冷えきって、緑がかった照明は人目を憚るように弱々しかった。薄暗がりの壁ぎわには姿見が置かれており、そこにはいま、異様な風体の人物が半ば影のように映しだされていた。
 その人物はまるで等身大の人形のようだった。見るかぎり背丈は恐ろしく高いが、いかに長身であっても、年齢や性別に関しては不明というほかなかった。それというのも、彼の頭部を覆う暗色の仮面と、全身を包みこんだ丈の長い黒衣、さらには両手に嵌められた白手袋のせいなのだ。音もなく彼が身じろぎするたび、ほの明かりの下でも黒衣は天鵞絨【ビロード】のごとく艶めいた。前合わせの胸もとがわずかに開き、やはり黒い着衣が覘いている。顎の下まで達したハイネックは彼の素肌を完全に隠蔽していた。
 異様な風体。不気味であると同時に、いかにも芝居がかった大仰な恰好とも取れるが、なかでもいちばんに目を惹くのは、何といっても奇怪な鉄仮面であろう。光源が近いため、その様子ははっきりと視認できた。
 それは仮面というより頭部彫像と呼ぶのにふさわしい外観をしていた。全体的につるりとした印象で、頭髪もない。卵形の輪郭を持ち、顎先は細く尖っている。涼しげな切れ長の眸、形のよい鼻筋。唇は薄く、雅びやかな微笑のぶんだけわずかに鼻唇溝が刻まれていた。
 美しい顔だ。ほかに皺がないことからもわかるが、この仮面は若い女の顔なのだ。
 写実的な作風にもかかわらず、これが単なる模像ではない、紛れもなく仮面であるというのは、内部が空洞で、耳の後ろを境に蝶番で前後に分かれる仕組みになっているからだ。加えて、双眸の黒目部分、鼻腔、口、両耳に開けられた都合七つの孔もまた、その実用性を物語るものといえよう。むろん、実際に人がかぶれるということは、そのぶんサイズもやや大ぶりに出来ていた。

 いかがだろう。鉄仮面といい、ぞろりとした黒衣といい、たしかに芝居じみた扮装で、ここまで来るとおふざけと紙一重だが、それでも中の人間が本気も本気、至って真面目にこんな姿をしているのだと知れば、そのいびつな熱情に、人々の口の端に浮かびかけた嘲笑はすぐさま影を潜めるだろうし、ましてや仮面の下に醜く崩れた素顔が隠されているとなればどうだろう。世の平均的市民は、好奇心より前にいいようのない据わりの悪さに苛まれ、うつむき、そっと目を逸らさざるをえないのではないか。
 実際、俺は界隈では狂人で通っていた。工房における液化ガスの爆発で顔面を負傷し、以来、けっして自作の鉄仮面を外さなくなった芸術家。次第に精神も崩壊し、ついには雑木林の「首縊りの家」に引きこもってしまった憐れな男。
 そうした噂の真偽について、当然ながら俺は誰より正しく真実を知っているが、ここではあえて肯定も否定もしないでおこう。正直なところ、自分が狂っているのか正常なのか、俺自身にもよくわからないのだ。例えば、理路整然とした文章を書いているからといって正常とはいいきれないし、ひょっとすると、俺には至極筋道立って見えるこの手記自体、他人様の目にはまさしく狂人の所業として映るかもしれないのだから。


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