11月23日
約束どおり「あの男」がやってきた。
鉄仮面と黒衣に身を包んだ長身の俺を、奴は薄気味悪そうに見上げた。
藤江、久しぶりだな、と、曖昧な笑みを浮かべながら奴はいった。
俺は苦しげに喉を鳴らし、白手袋の右手を挙げて応えた。
この部屋に腰を落ち着けたのち、昨晩電話で持ちかけた計画を再度俺は打診した。計画とは、能登新月をおびき寄せて、二人がかりで始末してしまおうというのだ。死体は裏庭に掘った穴に埋める。枯葉の降り積もる樹々に囲まれた庭。大丈夫、見つかりっこない。
そもそもすでに裏庭には……いや、それはまたの機会に書くとして、結論からいうと、「あの男」は計画に手を貸すことをあっけなく承知した。提示した報酬がものをいったのだ。奴の口もとから笑みが消えることはなかった。所詮金がすべての男だ。外車でも買うつもりか、それとも獲らぬ狸の皮算用、さっそく写真館をより豪華に改築する青写真でも描いているのか。
静まり返った部屋、俺たちは聞く者とてないのに声を潜め、能登新月殺害の算段を始めた。
金だけの男とはいえ、俗物は俗物なりに「あの男」にもユニークなところがあって、じつに突拍子もないアイデアを用意してきていた。
どうせ殺してしまうとはいえ、万が一の場合を考えて、顔を見られるのはまずいというのだ。そこで奴が編みだした趣向が、俺などはすっかり忘れていた「影百合」の再現だった。
「影百合」……黒耀座の舞台役者、沼田欣児の化身。あの異様な姿を目にしたのは高校生の時分に一度きりだから、いかに強烈な印象を受けたとはいえ、むろんそっくりそのままというわけにもいくまいが、「あの男」は嬉々としてみずから仮面を拵【こしら】えるという。それをかぶって素姓を隠そうというのだ。これには顔を見られぬようにするだけでなく、現在どこで何をしているかも知れない沼田欣児に疑惑の矛先を向ける狙いもあった。
沼田は藤江恭一郎と同様、一九〇センチを超えようかという長身痩躯の男だった。三〇センチ近くも背が足りないにもかかわらず、「あの男」は「影百合」こと沼田欣児に化けようというのだ。背の低い人間が長身を装う……何を隠そう、十年前の事件もそこにすべての秘密があったので、この提案を聞いたとき、内心俺はひやりとしたが、幸い奴は己の着想にご満悦で気づかぬようだった。
ともあれ、そうと決まれば能登新月を呼びだす段取をしなくてはならなかった。もちろんそれは俺の役目だ。
進捗があり次第、改めて連絡することを伝えて「あの男」を見送ったのは、つい一時間ほど前のことだ。
11月24日
今夜、白石光の携帯に「あの男」から電話があった。
ゆうべ藤江に会ってきたといい、そこで交わされた内容については秘密だという。ほくそ笑むような声調子は、藤江恭一郎に信頼されているのはお前ではなく俺なのだと暗に語っていた。
馬鹿な男。
窮鼠却って猫を噛むということを知らないのか。
無間の苦しみ……すべての元凶は、早見、お前なのだ。
11月26日
是璃寓のマスターに能登新月宛の手紙を預けてきた。
十二月一日夜十時、この邸への招待状だ。
思いもよらぬ色よい返事を前にして、彼はいったいどんな顔をするだろうか。
あの青年なら、期待を裏切ることなく伝言を受け取り、暗く恐ろしい迷路も易々と通り抜けて、首尾よくここまで辿り着けるはずだ。ふいに目の前に現れた好奇心旺盛な年少の友。君を待ち受けているのはさらに恐ろしい結末だ。心からすまないと思う。が、俺が同情を寄せるのもおかしな話だ。
早見篤にもさっそく知らせておかねばならない、「影百合」に変身する準備もあろうから。
それから是璃寓のマスター。愉しい時間をありがとう。もはやあの狭い階段を下ることも、安酒のキープボトルを傾けることもない。
もうじき俺の二重生活も終わる。
12月2日
俺はあの青年を殺せなかった……。
ゆうべの出来事をどこから記せばよいだろう。
夜十時、注文どおり能登新月がやってきた。庭の暗がりには「影百合」の早見篤が隠れている。あいつときたらすっかりゲーム感覚なのだ。俺は玄関の沓脱で、ドアを細目に開けて待機していた。
いよいよ「影百合」がその邪悪な姿を現す。突如出現した長身の怪人に、青年はさぞや胆を潰したことだろう。
どちらが手を下すかは決めていなかったが、青年に一撃を加えたのは早見だった。したたかに頭を殴られ、手もなく気絶した能登新月。その体を足もとに見下ろして、早見篤は俺にとどめを刺すよう求めた。最後の一線だけは、みずからは手を汚さぬというわけだが、もとよりそれは俺が遂行しなくてはならない行為だった。
だが、ここに至って俺の心にためらいが生じた。けっして怖気づいたわけではない。柄にもない仏心、それとも違う。上手く説明できないが、あのとき俺のなかで計画は大きく軌道修正されたのだ。
軌道修正……思えば以前、俺は本手記のなかでその可能性に触れていた。この計画は「上手くいけば一石二鳥、状況に応じて軌道修正もできる試み」であると。できるかぎり自分の気持ちに沿う結末を。早い段階で、すでに俺は針の振れる向きをぼんやり予測していたのかもしれない。
倒れる直前、至近距離で対峙した際の能登新月の表情。月明かりの庭で彼の眸に映っていたのは、むろん俺の顔ではなく、十七歳当時そのままの彼の姉さんの微笑だ……。
もうやめよう、もう終わりにしようと俺は思った。
突っ伏した青年を挟んで立つ「影百合」の扮装の異様さは、からくりを知っている俺から見ても凄まじかったが、幸いにしてこちらも表情を読み取られることのない恰好だ。さりげないふうを装って、俺は早見篤に、こいつはあとで始末して裏庭に埋めておくと伝えた。裏庭に掘られた深い穴を奴は前もって確認していたから、俺の言葉を疑わなかった。殺害計画を持ちかけたのはこちらなのだから、よもやその俺が翻意するとは早見も想像だにしなかっただろうし、そもそも青年を生かして帰すことには何のメリットもない。俺がそんな愚行を犯すとは思わなかったのも当然だ。
しかし実際には、真夜中、俺はぐったりした青年を背負って井の頭公園まで運び、人目につきそうなベンチに横たえて帰ったのだ。道のりは長く、えらい苦労をしたが、道中人と会うことはなく、青年も目を覚まさなかった(本当に死んでしまったのではないかと幾度も疑ったが、彼の体は温かだった)。もしも途中で青年が意識を取り戻していたら……そのときは俺もどうしていたかわからない。
俺は能登新月を殺せなかった。
それでいい。
俺が殺すべきは彼ではない……。
ともあれ、あの青年を生かして帰したことで、俺の運命はいよいよ決定づけられた。
12月5日
この数日、能登新月の再訪があるのではないかと覚悟を決めて待っていたが、彼はいっこうに姿を見せなかった。
まさかあのまま帰らぬ人となってしまったのではあるまいか。あるいはそこまでいかずとも、重傷で入院している可能性はある。もっとも、一時的に昏倒させられはしても、大ごとになるような殴り方とも見えなかったが。
平穏とはほど遠い、不気味な凪の日々が続く……だが、このままで終わるはずはないのだ。
事態は近いうちに必ず動きだす。
俺はそのときを待っている。
過去はただ思い出に変わるだけの存在だと、或る時期まで俺は信じこもうとしていた。しかし、そうではなかった。過去は時として現在に牙を剥き、未来すら獰猛に噛み殺す。たとえこの先にどんな暗い前途が待ち受けていようとも、過去というのはそれ以上に恐ろしい存在なのだ。なぜなら、いかに藻掻こうと、いかに泣き縋ろうと、それはけっして消し去ることも変容させることも叶わないのだから。
考えてみれば、あの日あの瞬間に端を発し、今日この日まで続いてきた俺の苦悶、これすべて、過去から現在、そしてまだ見ぬ行く末に向かって伸びつづける長い影のしわざではないか。闇さえも透過して伸びる過去の影法師。そう、過去こそが真の軛なのだ……。
去る九月の終わり、俺は一通の手紙を受け取った。そこには、十年前に起きた或る殺人事件の顛末……いまだ公にされていない真相が記されていた。手紙の送り主は当時の事情に通じた人物で、ただ俺一人に読ませたいがためにそれを書き綴ったのだ。
男はすべてを看破していた。俺は真正面から自身の罪を突きつけられ、あえなく彼の掌中の鳥となった。だが、唯一、彼の知らないことがある。俺が相当な代価を払って身の安全を購【あがな】ってきたという事実だ。仮に彼がそのことを知ってくれていたら……いや、それでも一緒だ。だからといって俺の罪が消えることはない。過去を消し去ることなど誰にもできはしないのだ。
もう何度読み返したか知れない告発文を、今夜もまた俺は机の抽斗から取りだして目を通す。 いまとなっては、この手紙を真に必要としているのは能登新月ではないか。
12月11日
いよいよ歯車が回りだした。
いまさっき早見篤から電話があり、昼間、能登新月が店に来たといった。奴にしては珍しくうろたえており、また、ひどく苛立っていた。何がどうしてそうなったのか、わけがわからないようだった。
不穏な凪の状態は思いのほか長く続いたが、能登新月が早見の写真館を訪ねようとは意外だった。彼は勘づいたのか? どうやって? それともただの偶然だろうか。
いずれにしても無事であってくれてよかった。
受話器越しに詰問する早見に、俺は先夜手違いがあったことを伝え、明晩もう一度ここへ来てくれるよう要請した。
奴は必ず来る。
そうしないと自身の身が危ういからだ。
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