Webミステリーズ!

〈Webミステリーズ!〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈る月刊ウェブマガジンです。毎月5日ごろに更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

SF不思議図書館 愛しのジャンク・ブック 第5回 もうひとつの『高い城の男』


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1 ヒトラーをめぐる謎

 久しぶりの更新である。諸事情で前回から時間が経ったが、この連載はまだまだ続く。というわけで、今更ながらご挨拶申し上げます。本年もよろしくお願いいたします。
 さて、今回の「SF不思議図書館」は、ナチス・ドイツにまつわる書物をご紹介しよう。というのも先日翻訳された長篇ノンフィクション『ヒトラー 死の真相 KGB機密アーカイブと科学調査(上・下)』(ジャン=クリストフ・ブリザール&ラナ・パルシナ著・大塚宏子訳・原書房・2018)を読んで、大いに触発されたからだ。

(1)ヒトラー死の真相

 第2次世界大戦末期の1945年4月。ソ連軍がベルリンに突入し、壮絶な市街戦を経てドイツは敗戦を迎える。追い詰められたヒトラーは、妻になったばかりのエヴァ・ブラウンとともに、総統官邸の地下壕で自殺した。
 ヒトラーの最期については、ナチズム研究の権威イアン・カーショー教授による長大な評伝『ヒトラー(上・下)』(川喜田敦子訳・石田勇治監修・白水社・1998)や、ノンフィクション『ヒトラー最期の日 50年目の新事実』(エイダ・ペトロヴァ&ピーター・ワトソン著・藤井留美訳・原書房・1996)に詳しい。これらの書籍にあるとおり、ヒトラーの自死は、死亡直後の記録や膨大な証言、裁判所の検証、検死報告等によって、確固たる歴史的事実として扱われてきた。

(2)ヒトラー最期の日

 ところが、ロシアの公文書館が秘蔵するヒトラーのものとされる頭蓋骨や歯に関しては、重要な証憑であるにもかかわらず、本当にヒトラーの遺骸なのか? という疑問が従前から指摘されてきた。戦後の混乱期から冷戦期にかけて埋葬と発掘が繰り返され、しかも長い間機密扱いゆえに閲覧が許可されず、過去数回のソ連側調査も疑問点があった。特にその真贋については、なぜか科学的に精査される機会が無く、しかも資料や遺骸を保存する公文書館が各所に分散しているのも、真実の究明を妨げてきた。
 前述の新刊『ヒトラー 死の真相』は、最新の科学分析を用いることでその真贋論争に挑んだドキュメンタリーである。フランスではTV番組として制作され、その後この書籍が刊行された。
 TVプロデューサーとディレクターである二人の筆者は、封印されていたKGB時代の機密文書の開示をロシアに要請。長期間にわたり粘り強く交渉した結果、各地の公文書館に保存されるドキュメントや遺骸を、史上初めて、まとめて閲覧・鑑定できることになる。
 彼らは、2015年から 2017年にかけて、公開された機密文書を付き合わせ、また、ヒトラーの死を扱った過去文献とも比較。ヒトラーが地下壕でどのように自殺したかについて事実関係を整理していった。頭蓋骨の現物を鑑定し、併せて治療跡の残る歯を最新の法医学テクノロジーで精緻に分析した。その結果、頭蓋骨は性別不明で、ヒトラーかどうかは特定できない、ただし歯はヒトラー本人のものである、という結論に至る。
 依然として頭蓋骨のミステリーが残ったとはいえ、荒唐無稽なヒトラー生存説は、これで終止符が打たれた。時間と労力をかけた作業は今後のヒトラー研究の礎にもなるだろう。もっと言えば、ここまで律儀に歴史的な事実に向き合わないと、七十年以上を経てもなおミステリアスな謎を叩き付けてくるヒトラーの呪縛からは、逃れられないのだ。
 かつて『ヒトラー検死報告 法医学からみた死の真実』(ヒュー・トーマス著・栗山洋児訳・同朋舎出版・1995)という研究書が刊行された。司法解剖学者である著者は、1990年代にロシアで部分的に解禁された記録文書や頭蓋骨を調べて、ヒトラーの死に関する独自の結論を下す。この本によれば、ヒトラーは自殺せず、親衛隊員でヒトラーの専属従者ハインツ・リンゲが、言い逃れをして自殺を引き延ばすヒトラーをねじ伏せるために、絞殺したという。その後リンゲは自殺を偽装、エヴァ・ブラウンの偽死体まで用意して、彼女とともに地下壕から脱出した――。
 確かに衝撃的な「真相」だ。特にヒトラーが絞殺されるシーンは、詳しく生々しい。しかし、同書はノンフィクションである。にもかかわらず、まるで見てきたかのような書きっぷり。著者の推理に基づくストーリーが、優先されているきらいがあるのだ。「こんな話があったら興味深いのに」という世人の潜在的な願望に接近しすぎると、ノンフィクションといえども眉唾物になってしまう。

2 ヒトラーは生きている!

 ヒトラーとナチスをめぐる話題は、第2次世界大戦でドイツが敗戦を迎えた直後からセンセーショナルに扱われてきた。今でこそヒトラーは死んでいると明言できるが、戦後の混乱の極みにあって、替玉説・生存説・逃亡説が入り乱れたのは当然だろう。
 中には政治的意図を持つ明らかな嘘もあったし、興味本位の噂が一人歩きして、真実味を帯びたケースもあった。特にヒトラーだけでなくナチス要人の生存説は、世界的な規模で跋扈することになる。
 その一端を知ることができるのが、2015年にアメリカの出版社ミステリアスプレスから刊行された単行本Hitler Is Alive ! Guaranteed True Stories Reported by the National Police Gazette(ヒトラーは生きている!/ナショナル・ポリス・ガセット誌による揺るぎない実話)(スティーヴン・A・ウェストレイク編・未訳)である。

(3)Hitler is Alive

この本は、アメリカの大判タブロイド月刊誌〈ナショナル・ポリス・ガセット〉に、1951年から1968年の間に76回掲載された特集記事「ヒトラーは生きている!」から52本を選んで編纂したアンソロジーなのだ。
 初期の記事では彼の決死の逃避行が、関係者への取材で明かされる。戦火のベルリンを脱出し、北欧経由でUボートに乗船。その後、海中に潜行し南アメリカに渡る行程が、ドキュメンタリー・タッチで描かれる。その中には米国情報機関のW・Fハイムリッヒ大佐が執筆したというコラム「ヒトラーの自殺はフェイクである」も載っており、大佐は死体処理の不確かさを根拠に替玉説を主張。さらにヒトラーを逃がすためにドイツ空軍が事前準備をしていたという裏話を暴露している(このエピソードは、ナチス残党の奇想天外な戦後を描いて話題となった落合信彦のノンフィクション『20世紀最後の真実』〈集英社文庫・単行本初版1980年〉でも、〈ナショナル・ポリス・ガゼット〉誌の記事として紹介されている)。
 エヴァ・ブラウンを特集した記事もセンセーショナルだ。死の前日に妻の座を手に入れた劇的な運命は、格好のゴシップネタなのだろう。戦後発見されてアメリカ軍の手に渡った「エヴァ・ブラウンの日記」も紹介され、「秘密日記が明かすヒトラーのストレンジ・ラブ・ライフ」(Eva Braun's Secret Diary Reveals Hitler's Strange Love Life)と題して、独裁者との愛の日々が暴露されている。まるで悲劇のヒロインのような扱いである。
 また、ヒトラーの実の娘と称する二人の女性も登場する。相変わらず「実は父は生きています」と証言しているのだが、ヒトラーに娘が二人もいたとは知らなかったぞ!
 その他にも、ヒトラーの側近マルティン・ボルマン生存説や、アルゼンチンでのナチス再建レポートなどが仰々しく語られ、後半では霊媒師までが登場。霊視によって南アメリカで暮らすヒトラーの風貌を明かしている。もはや何でもアリなのだ。
 そもそも〈ナショナル・ポリス・ガゼット〉誌は、ボクシング記事を流布させるために、1845年にアメリカで創刊された老舗の情報雑誌だった。スポーツ・ニュースに紙面を大きく割き、犯罪やセックスをテーマにしたゴシップ・コラムや女性のピンナップ写真を掲載するタブロイド判の月刊誌で、イエロー・ジャナーリズム度の高い雑誌だ。ゴシップ・コラムには「死体を食べる猫との死闘」とか「狂った精神病院の恐怖」といったようなC級ニュースが並んでいる。つまりこの「ヒトラーは生きている!」特集も、そんなノリの延長といえよう。
 実は本書Hitler Is Alive!の狙いは、過剰で奇怪なヒトラー報道を笑い飛ばすことにある。面白く作られた嘘八百は、メディアに対するリテラシーが低い読者にとって、「真実」となりうる危険性を秘めている。そんな危うさをまとめて鳥瞰することで、空虚な偽史がいかにナンセンスかを、本書は教えてくれる。
 ちなみに編者のスティーヴン・A・ウェストレイクはジャーナリストで、ミステリ作家ドナルド・E・ウェストレイクの息子である(だからこの本の出版元がミステリ書を専門に手がけるミステリアスプレスなのだろう)。ブラック・ユーモアのセンスは父親ゆずりかな?

3 フィクションとナチズム

 ノンフィクションにしろフィクションにしろ、私たちはなぜ、重く暗い「悲劇」を読みたがるのだろう? 悲劇的な出来事を、わざわざ確認したがるのが、人間という存在だからなのか? だとすると、「ヒトラーは生きている!」「ナチスは健在だ!」のような言説が飛び交うのも、あってほしくない「悲劇」に対する心理的な裏返しかもしれない。
 我が「SF不思議図書館」のフィクションの棚に眼をやると、「もし、ヒトラーが生きていたら……」「もし、ナチス・ドイツが戦争に勝っていたら……」という歴史のifを扱う仮想SFが何冊も並んでいる。例えば――。
 フレッド・オルホフの長編『夜の稲妻』(1940)。これは、第2次世界大戦中にアメリカで発表されたナチス勝利小説の古典。

(4)夜の稲妻

 サーバンという変わった名前の作家の『角笛の音の響くとき』(1952)は、ナチスによるマンハントが続く暗黒の未来を描いた中編寓話。
 フィリップ・K・ディックの長編『高い城の男』(1962)は言わずと知れたヒューゴー賞受賞作。ナチスと日本が支配するアメリカと、両国が負けたもうひとつの世界が交錯する不思議な作品である。

(5)高い城の男

 ノーマン・スピンラッドの長編『鉄の夢』(1972)は、独裁者ではなくSF作家になったヒトラーの数奇な運命を描く奇書。
 レン・デイトンの長編『SS‐GB(上・下)』(1978)は、ナチスによって占領されたイギリスで起きた殺人事件と国家的謀略を追うエスピオナージュ。
 ジェイムズ・P・ホーガンの長編『プロテウス・オペレーション』(1985)は、タイムトラベルを悪用したナチスの陰謀を暴く時間SF。
 ロバート・ハリスの長編『ファーザーランド』(1992)は、75歳の老ヒトラーが健在のドイツを舞台とする警察小説。
 近作では、フィリップ・ロスの長編『プロット・アゲンスト・アメリカ もしもアメリカが…』(2004)や、ジョー・ウォルトンの《ファージング》三部作(2006―2008)、ピーター・トライアスの長編『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン(上・下)』(2016)、等々……。どれもおなじみの傑作・秀作・異色作である。
 次に未訳の書籍をご紹介しよう――いや、その前に、ノーマン・スピンラッドのこんな言葉を記しておく。

「私たち一人一人の中に、ナチスの夢と同じものが、わずかながら存在するということを、正直に否定できる人はいるだろうか?」

 これは、グレゴリイ・ベンフォードとマーティン・H・グリーンバーグが編纂したアンソロジー、Hitler Victorious: Eleven Stories of the German Victory in World War II(勝利者ヒトラー 第2次世界大戦におけるドイツの勝利を描いた11の物語)(ガーランド社・1986)の序文に、スピンラッドが
寄せた一節である。

(6 Hitler Victorious

 仮想SF作品を通じて私たちは、「繰り返したくない未来」や「望まない現実」を再確認できる。しかし――と思う。私たちの内なるヒトラー的な部分が、ファシズムとナチズムの悪夢に共鳴しているとしたら……。もっと言えば、無意識のうちに「ファシズムの美学」が放つ象徴主義や、オカルティックなアングラ・カルチャー、ナチスによる性の抑圧政策から逆説的に生じるセクシャリティーの魔力などに囚われるとしたら……。
 「いや、それはない」と本当に言い切れますか? というのがスピンラッドの投げかけなのだろう。
 Hitler Victoriousの巻頭には、スピンラッドの序文だけではなく、編纂したベンフォードによる解説コメントが載っている。彼は、ナチス勝利モノの過去作(『角笛の音の響くとき』『高い城の男』『鉄の夢』等)を回顧しつつ、「長編にも良い作品が多いが、短編にも優れた作品がたくさんある」と主張する。ヒトラーやナチズムの世界は、良くも悪くも豊穣な切り口を提供してくれるし、短編のスタイルをとることで、多種多様な作品を生みだすことが可能だからだろう。
 収録された中短編は次の通り。全11編の内、3編に既訳がある。

"Two Dooms"(1958)C・M・コーンブルース ※未訳
「フレンチ・シュタイナーの堕落」(1964)ヒラリー・ベイリー
"Through Road, No Whither"(1985)グレッグ・ベア ※未訳
「降誕祭前夜」(1972)キース・ロバーツ
「トール対キャプテン・アメリカ」(1986)デイヴィッド・ブリン
"Moon of Ice"(1982)ブラッド・リナウィーバー ※未訳
"Reichs-Peace"(1986)シーラ・フィンチ ※未訳
"Never Meet Again"(1958)アルジス・バドリス ※未訳
"Do Ye Hear the Children Weeping ?"(1986)ハワード・ゴールドスミス ※未訳
"Enemy Transmissions"(1986)トム・シッピー ※未訳
"Valhalla"(1982)グレゴリー・ベンフォード ※未訳

 巻頭を飾るのが、35歳で夭逝した作家コーンブルースの中編"Two Dooms"(二つの運命)である。
 原爆開発のためのマンハッタン計画に従事する若き科学者ロイランドは、疲れと苛立ちから「神の食物」と呼ばれるホピ族の薬物を服用する。彼の精神がトリップした先は22世紀で、アメリカが原爆を作らなかったために、連合国と枢軸国が壮絶な地上戦を展開した結果、勝利を収めたドイツと大日本帝国が分割支配する暗黒のアメリカだった。主人公は、日本人の「侍」の子孫が支配する奇妙なコミュニティー「雨月村」や、オカルト科学を駆使するドイツ人が運営するシカゴ人種研究所などを彷徨う。
 コーンブルースは、第2次世界大戦時、ヨーロッパ戦線で実際にドイツ軍と戦っただけあって、ナチズムとその戦争犯罪に対しては厳しく断罪している。日本に関する記述に偏見がみられるのは残念だが、才人コーンブルースの作品だけあって読み応えは満点だ。
 邦訳のあるなかでは、ヒラリー・ベイリーの短編「フレンチ・シュタイナーの堕落」が鮮烈な印象を残す。かつてヒトラーに徴用された女性占い師の運命を描いた作品で、ジュディス・メリルが編んだ『年刊SF傑作選7』(創元SF文庫)に収録されている。

(7)年刊SF傑作選7

 作者ベイリーは英国の作家で、元マイクル・ムアコック夫人。2014年にエマ・テナントと共著で長編Hitler's Girls(ヒトラーの少女たち)(ORブックス・2014・未訳)を発表した。ヒトラーの愛人が生んだ娘が、ナチスの謀略に巻き込まれるというポリティカル・フィクションらしい。
 作品集のラストを締めるのは、編者ベンフォード自身の短編"Valhalla"(ヴァルハラ城)である。
 舞台は1945年4月30日のベルリン。ヒトラーが総統官邸の地下壕でエヴァ・ブラウンと自殺をする瞬間、部屋に謎の男が現れ、ヒトラーの自殺を止める。実はその男は、1947年に戦争が終わった別の時間軸から転移して来たのだ。彼の世界では、やはりドイツが戦争に負けたという。しかし、あることを完遂するために、どうしても生きているヒトラーの助けが必要なのだと力説する。果たしてその完遂すべきこととは何か?
 ベンフォードは長編『夜の大海の中で』(1976)や『木星プロジェクト』(1980)といった宇宙が舞台のハードSFを書く一方で、時間物や歴史物にも興味もあるらしく、タイムトラベルが題材の長編『タイムスケープ(上・下)』(1980)も発表している。"Valhalla"も後者の流れを組む短編で、ヒトラーの最期に焦点を絞り、謎に満ちた死の一瞬に壮大なifの世界を持ち込むという、アクロバティックな作品に仕上げている。
 ちなみにベンフォードは、2017年、マンハッタン計画を題材にした仮想歴史SF長編The Berlin Project(ベルリン計画)(サガプレス・未訳)を上梓した。実際の歴史では1945年だったアメリカの原爆製造が、1年早い1944年に完成したことで、投下目標が広島ではなくベルリンとなった仮想世界を描いている。Hitler Victoriousの刊行から31年目。満を持しての大作である。

4 大河のごとき歴史の中で

 「SF不思議図書館」の書棚に並ぶ未訳作品をもう少し紹介しよう。
 ベンフォードと同じ科学者兼SF作家で、同じくヒトラーやナチス・ドイツをテーマに仮想歴史SFを発表しているのが、ベン・ボーヴァである。彼もまた宇宙SFを得意とすることで知られているが、とあるエッセイでこう述べている。

「私は、自分の物語を〈SF〉ではなく、まだ起こってないことを描く〈歴史小説〉として考えることがよくあるのです」(Naple Daily News 2011年2月13日 "BEN BOVA: Science fiction at its best is 'history that hasn't happened yet'" より)
 そんなボーヴァが1993年に上梓したのが、長編Triumph(勝利)(トーブックス・未訳)である。この本では、ヒトラーやナチズムは実際の歴史通りに敗北する。しかし、その過程とその後の状況が史実とは異なっている。

(8)Triumph

 未訳作につきストーリー紹介が長くなるが、こんな話だ。
 描かれる期間は、ヨーロッパ戦線が終わる兆しの見えた1945年4月1日から30日までの1ヶ月。ソ連軍がベルリンに突入する直前から物語は始まる。
 ソ連人グリゴリー・ガガーリンは、クレムリンでスターリン書記長の秘書を務めていたが、心底彼を憎悪していた。というのもスターリンによる強権的な農業集団化政策で、彼の身内や同胞が餓死。残された身内は、20歳の弟ユーリ・ガガーリンだけだった(このユーリが将来宇宙飛行士になる)。グリゴリーはスターリンを虐殺者とみなし、復讐を決意。勉学に励み、外務省の官僚を経て、ついに彼の個人秘書に任命された。
 スターリンの執務デスクの後ろの壁に、大きな銀の刃をもつ剣が飾ってあった。これは、スターリングラード攻防戦でドイツ軍を破ったソ連軍に対し、1年前のテヘラン会議で英国王ジョージ6世がチャーチル首相を通じてプレゼントしたものだった。長さは4フィート。柄頭にはガラス玉が埋め込まれており、ペルシャ羊の皮に金色のバラ模様の把手が付いている。
 実は、この剣の柄頭の中に小さな薄片が仕込まれていた。アメリカから入手したプルトニウムで、これでスターリンを被曝させ、急性中毒で暗殺しようというのである。
 当時チャーチルは憂慮していた。スターリンがドイツとの戦争に勝てば、その勢いでヨーロッパを占拠するだろう。そして日本との戦いを終わらせ、その後はアメリカと壮絶な死闘を繰り広げるはずだ。それを未然に食い止めるためには、スターリンを亡き者にしなければならない。
 だからチャーチルは策を弄し、結果プルトニウム入りの剣がスターリンの執務室に置かれるよう仕向けたのだった。その際秘密裏に登用されたのが、英国の諜報部に通じていたグリゴリーだった。彼は剣からプルトニウムを取り出し、スターリンの執務デスクに仕込む。
 そんな折、ソ連に秘密裏に協力していた英国の二重スパイのキム・フィルビーは、暗殺計画の情報を入手、モスクワに打電する。しかし時既に遅く4月11日、スターリンは急死(史実では1953年3月5日に病死している)。同じ頃グリゴリーも被曝の末、絶命した。
 スターリンの死は13日に世界に伝わり、衝撃を与える。その報は、少し前にタバコを止め、健康が復調したルーズベルトにも打診された(史実ではルーズベルトは4月12日に病死)。ルーズベルトと軍首脳部はベルリンへの突入を決意する。
 スターリンが死んだクレムリンでは、フルシチョフ等による権力闘争が勃発、そのためにベルリン突入の指令が遅延する。その間を縫って、アメリカ第101空挺師団がベルリン市街にパラシュート降下、ジョージ・パットン将軍率いる戦車部隊「第3兵団」も突入し、壮絶な市街戦となった。
 物語は、4月30日をもって、鉈で切ったように終わる。ヒトラーとナチズムが敗北し、生き残ったチャーチルとルーズベルトが今後どのような世界を作っていくのかは描かれていない。読者の想像に委ねるということだろう。
 スピード感はあるけれど深みには欠ける。だが、スターリンの死という想定外の事態から生じる登場人物たちのリアクションが意表を突いており、「ポリティカル・フィクション」としてスリリングだ。なによりも、ベン・ボーヴァがこんな架空戦記を書いているのが意外である。
 ついでにボーヴァの未訳作品をもうひとつ。
 彼は、仮想歴史SFの短編も書いており、タイトルは"The Cafe Coup"(変革のカフェ)(初出はSF誌〈ファンタジー&サイエンス・フィクション〉1997年9月号・未訳)。
 時間旅行のテクノロジーを持ち、未来から1922年にやって来たアメリカ人の「私」は、パリのカフェで街並みを眺めながら、自分の行った歴史改変作業を振り返っていた。
 彼が生きていた時代は科学技術が発達し、人類が宇宙に進出する超ハイテク社会。しかしその一方で、暴力と殺戮がはびこり、争いと大量死が日常の暗黒の時代だった。
 嫌気がさした「私」は、過去の歴史を解析。その元凶が20世紀の第2次世界大戦にあり、特にヒトラーとナチスの存在が大きな要因になっていると結論づける。そして次のような確信を抱いた。
 「そもそも1917年に終わった第1次世界大戦でドイツが勝っていれば、莫大な賠償金を課せられず、経済が疲弊することはなかった。そうなればヒトラーもナチスも誕生せず、ホロコーストも起きない。未来も変わるはずだ」
 そこで「私」は、タイムトラベルを敢行。アメリカが大戦に参加する端緒となった事件――ドイツ人への怒りの世論が生まれたルシタニア号沈没事件---を回避するよう様々な工作を行った(史実ではドイツの潜水艦攻撃で撃沈。多くのアメリカ人が死に、反独運動が強まった)。
 事件が起きなかったことでドイツ人への敵意が薄れ、最終的にアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンも1917年に宣戦を布告することはなかった。そして、アメリカが参戦しないことで、ドイツがロシアとフランスとイギリスを破り、勝利を収めたのだ。これで歴史が変わった、と「私」は満足していた。
 ところが。カフェから見えるパリの街中では、予想外の事態が勃発していた。負けたフランス人の中に、貧困と憎悪に根ざすファシズムと人種差別の思想が芽生え、フランス全土に波及していったのだ。さらに、実際の歴史では後に英雄となった「とある男」が、悪魔的な思想を育み、ヒトラーのような独裁者となって市民を扇動し始めたのだ……。ちなみに「とある男」とは、後のフランス大統領になった、あの人物――というオチ。
 掌品ながら、容易には覆せない20世紀という時代の大きな闇を直視させてくれる佳品である。

5 ナチス・ドイツは滅んだが……

 内なるヒトラーに怯え、無意識のナチズムに対峙しながら、この種の本を読み続けていると、時折凄まじい怪作に出会うことがある。一体何ナンだ、これは? と叫びたくような異形の仮想歴史SFである。
 そのひとつが、英国のホラー作家ジェームズ・ハーバートの長編 '48(ハーパーコリンズ・1996・未訳)だ。ハーバートは、邦訳もされた長編『鼠』(1974)、『ザ・サバイバル』(1976)等で名高い英国モダン・ホラーの巨匠である。長編『聖槍』(1978)で一度ナチス物を書いたことがあるが、さて'48はどうだろうか?

(9) ’48

 ちなみに、タイトルの'48とは「1948年」のこと。1945年に第2次世界大戦が終わり、その3年後から物語は始まる。
 「私」ことユージン・ナサニエル・ホークは、かつてアメリカ軍のパイロットだった。今は愛犬ギャグニーと一緒に、第2次世界大戦で廃墟と化したロンドンに隠れ住んでいる。
 終戦直前、ナチス・ドイツはV2号ロケットに強力な生物兵器を搭載し、イギリスを総攻撃した。ウィルス爆弾による疫病に感染した者は、瞬時にして血液が凝固。動脈が詰まって皮膚も壊死し、血を吐いて壮絶死をとげる。ロンドンでも市民が大量死した。詳細は不明だが、被害は英国全土に及んだらしい。
 終戦後3年の今、ドイツは滅び、ロンドンも都市機能を失った。治安が悪化し、交通網も壊滅したまま。街にはミイラ化した遺体や人骨が散らばり、野生化したネズミ・野犬・カラスが蔓延っていた。バッキンガム宮殿も廃墟となり、王室は死に絶えたと伝えられていた。
 しかし、AB型マイナス(陰性)の血液を持つ人口3%程の少数者は、その疫病に耐性があり、死を逃れることができた。ウィルスに冒されても進行が遅く、〈スロー・デス(遅い死)〉と呼ばれる状態で、治療法も解毒法もわからぬまま、ひっそりと暮らしていた。主人公ホークもその一人だった。
 そんなある日、生存者の血液を奪い、自らに輸血して生き残ろうとする集団が現れる。〈黒シャツの男たち〉と呼ばれる彼らは、ファシストの残党で英国のネオ・ナチを組織する英国人ハッブル卿に率いられていた。生者を狙う吸血鬼さながらの彼らは、ホークを執拗に狙い始める。
 〈黒シャツ〉から逃れるために、ホークは地下道や廃屋を渡り歩く。その中で彼は様々な人に出会い、共同生活を始める。元ドイツのスパイでウェールズの収容所にいたウィルヘルム・スターン。医学研究所で働いていたが、医師全員が死亡し逃げ出してきた女性シシーとミリエル、気のいい元空襲監視員のアルバート、等々。逃亡と、敵との闘いに明け暮れる日々は、やがて凄惨な結末を迎える……。
 読む者を奈落の底に落とすようなディストピア小説である。絶望的かつ虚無的。疫病が蔓延した結果、アメリカやヨーロッパ等がどうなったかについても説明はない。ほぼロンドンだけで話が終始するのも、閉塞的な空気を醸し出している。
 それでも映画「マッドマックス」さながらのアクションや追跡劇もあって、リーダビリティーにはあふれているが、最初から最後まで、救いは微塵もない。
 実際の歴史において、1945年3月、ヒトラーは敗戦が近いことを知りながら自国内における「焦土作戦」を命じ、もはやそんな体力はドイツ国民に残されてないにもかかわらず、自力での退避まで強制した。自国民に死ねというような命令を下す非道さは、本書における「自らの死の道連れに、生物兵器を用いて人類すべての死を求める」という凄まじい悪意と重なるところがある。

6 もうひとつの『高い城の男』

 今回取り上げる小説は、どれも一筋縄ではいかないものばかりである。最後に取り上げる未訳作も、冷静に読むことができない慄然の書だ。
 タイトルは、The Ultimate Solution(究極の解決)(ワーナー・ペーパーバック・1973・未訳)。作者はエリック・ノルデンEric Nordenという。第2次世界大戦でアメリカが敗北し、ナチス・ドイツが占領するニューヨークが舞台の警察小説である。

(10)The Ultimate Solution

 おお、あれか! という方は相当のマニアか熱心な研究家だ。海外では、仮想歴史SFのエッセイや研究書で何度も紹介されてきた著名な本だが、1973年にペーパーバック・オリジナルの初版が出たまま絶版となり、稀覯本になった。高額で入手困難なこともあり、わが国でも未紹介である。
 それと――上記の概略だけ読むと、フィリップ・K・ディックの傑作『高い城の男』と似ているぞ、と思われるかもしれない。確かに設定がそっくりだし、『高い城の男』より後に書かれているので新鮮味はない。物語に深みも欠ける。いわゆるB級作品なのだ。
 簡単にストーリーを記しておこう。
 時は1974年。ニューヨーク市警の刑事ビル・ハルダーのもとに、新たな事件が舞い込んでくる。街のどこかに凶悪犯罪者が潜伏している。急いでその人物を捕えろと言うのだ。その人物とは---ユダヤ人! アメリカではすでに抹殺され、世界中で殲滅の対象となっているユダヤ人が、ニューヨークで目撃され、潜伏しているというのだ。
 実は……ニューヨーク市警はナチス・ドイツとゲシュタポの支配下にあった。1936年にルーズベルト大統領が暗殺され、ヘンリー・ロングが次の大統領に選ばれた。やがて第2次世界大戦が勃発、アメリカとドイツが原爆の開発を進めるが、ドイツが早く完成させ、それをシカゴとピッツバーグに落としたことで、連合国が屈服。枢軸国が勝利を収めた。
 アメリカでは親ナチスのリンドバーグが大統領となり、「セントルイス裁判」が開かれて、戦争犯罪人としてダグラス・マッカーサーやパットン将軍が処刑された。アパラチア山脈をはじめ、アメリカ各地にユダヤ人収容所が作られ、次々に殺された。今はドイツと日本の関係が悪化、両国は冷戦状態にある。
 そんな状況の中、ユダヤ人の生き残りが見つかったのだ。ドイツでも問題になり、カナダとアメリカを担当する秘密警察ゲシュタポの隊員エド・ケーラや、すべてのユダヤ人の絶滅を監督するドイツ人フォン・リーブ教授もニューヨークに集結した。彼らはニューヨーク市警にユダヤ人の捕獲を厳命する。
 このように本書は、仮想歴史SFであり、マンハント物でもあり、なおかつ警察小説という「ごった煮」作品なのだ。ただし設定が平行世界なだけで、ストーリーは捜査物の手順を踏みながら、オーソドックスに展開していく。
 ハルダー刑事は、イタリア系のマルキ刑事を相棒に、わずかな目撃証言を手掛かりに捜査を開始する。二人はユダヤ人が目撃された装飾店に向かった。
 その店は、ユダヤ人の皮膚や骨で作ったアクセサリーや、死体から作った工芸品を扱っていた。店の主人は、ユダヤ人と思われる謎の男に首を絞められたと証言。その男は「怪物め!」と叫び、去ったというのだ。
 この尋問中に、アメリカがいかに酷い国になったかが、エピソードを交えて紹介される。例えば、この装飾店に入ってきた婦人が黒人を連れていた。なんとその黒人は「ペット」なのだという。戦後のドイツが進める「解放政策」により、黒人とスラブ系の子供は、幼児の段階で声帯を切除され、犬や猫のように「ペット」として飼われるようになった。
 これ以外にも、黒人レスラー同士が死を賭けて格闘する、まさに「殺人競技」が、スポーツの殿堂マジソン・スクエア・ガーデンで開催されていたり、子供が動物を虐待する遊びが常習化していたり、ニューヨークはユダヤ系の建築物が多く、デカダンスなので破壊すべきだ、といった酷い意見が飛び交ったりする。
 なんとも非道徳的かつ差別的で、読んでいて気分が悪くなってくる。でもナチズムが支配すると、このような倒錯した退廃世界が当たり前になるということを、著者ノルデンは言いたいのだろう。やがて物語は新たな局面を迎える。
 ハルダーが自宅の近所で、空手の構えをした男に襲われたのだ(日本人らしい)。その旨を、ハルダーが滞在中のフォン・リーブ教授に伝えると、教授はこう言い放つ。
 「事件の背後には日本人が暗躍している。今回の件は、下手をすると日本との全面戦争のきっかけにもなりかねない。ハイドリヒが暗殺されてからドイツでは軍部が対立している。ヒトラーも耄碌してきた」
 そんな矢先、ユダヤ人が売春宿で目撃されたという情報が飛び込んでくる。駆けつけたハルダーが証人に対して手掛かりは無いかと尋ねると、ユダヤ人から渡されたという50セントコインを見せられた。コインには「1966 J・F・ケネディー」と刻まれていた。  ハルダーは思う。「ケネディーって、誰だ?」
 そんな名は聞いたことがない。

 勘の良い方は、この段階で結末の一端が透けて見えてくるのではなかろうか? その後、ちょっとした紆余曲折を経て、事件はクライマックスを迎える。さまざまな関係者の証言や、拷問によって、ユダヤ人の潜伏先や協力者が浮かび上がってくる。そして、ユダヤ人の正体と彼の真の目的が明らかにされ、やり場のない世界観が支配する、暗黒小説らしい非情な結末に至るのだ。
 とまあ大雑把な紹介になってしまったけれど、『高い城の男』の後日譚のようでもあるし、同時に異色のSFミステリという奇書なのだ。
 著者エリック・ノルデンは1988年生まれ。男性誌〈プレイボーイ〉Playboyなどにインタビューやルポを発表していたライターで、1960年代から70年代にかけて、SF雑誌〈ファンタジー&サイエンス・フィクション〉等に中・短編を発表している。著書はThe Ultimate Solutionと作品集Starsongs and Unicorns(星の詩と一角獣)(マナーブックス・1978・未訳)のみという寡作な作家だ。1979年に亡くなっている。
 またノルデンは、男性誌〈キャバリエ〉Cavalierの1968年7&8月号に、"First Cause" (最初の原因)(未訳)という中編を発表している(SF誌〈ファンタジー&サイエンス・フィクション〉1977年7月号掲載時に"The Primal Solution"(最初の解決)と改題)。ヒトラーを題材にした仮想歴史SFで、ユダヤ人収容所で娘を殺された医師が、ヒトラーのユダヤ人に対する憎悪を矯正させようと、精神のタイムトラベルを行い、若き日のヒトラーの精神と一体化を試みるが、実験に失敗し、逆にヒトラーの心にユダヤ人への憎悪を芽生えさせてしまうという皮肉な物語である。
 このようにノルデンは、かねてからヒトラーやナチズムへの関心が高かったのだろう。1971年には、建築家でナチス要人アルベール・シュペールの回顧録『ナチス狂気の内幕』(品川豊治訳・読売新聞社・1969・文庫改題『第三帝国の神殿にて(上・下)』中公文庫)がアメリカで刊行された際、彼はプレイボーイ誌で、シュペール本人にインタビューしている。このような蓄積も、The Ultimate Solutionを生む契機になったと思われる。
 複雑な小説構造をもつディックの『高い城の男』に比べると、The Ultimate Solutionの物語は単純だ。捜査と証言を軸に展開するため一本調子だし、最後に明かされるユダヤ人の正体とSF的アイデアが平板なので、カタルシスにも欠ける。
 今更ながら、私はこう思う。『高い城の男』は傑作であった、と。何度読んでも刺激的な作品だし、ナチズムの酷さを残酷趣味で描くことなく、その怖しさをしっかり伝えてくれる。また、小説のバックボーンとなった中国の古典『易経』と併せて読むと、その深淵さに一層驚かされる。そんな高尚さもあって、『高い城の男』の本質を理解するには、まだまだ理解が足りないなあ、とも感じる。
 それに比べてThe Ultimate Solutionはどうだろうか? 異色の警察小説であり、SFミステリとしても衝撃的だ。しかし、構成はありきたりながら、描かれるエピソードや世界観は悪夢の連続である。眼を覆うばかりの奇怪なカルチャーが次々に登場し、非人間的で差別的な言動が繰り返される。
 だがこれらを、エンタテイメント小説内の奇妙な事象として、単純に面白がるのはとても危険だ。結果的にヒトラーとナチズムの狂気を矮小化し、歴史の本質を見誤りかねない。我々の理性を惑わし、破壊する魔力をもつ事象を直視する重い作業を経てはじめて、著者ノルデンの警鐘が生きてくるのだ。そういう意味でThe Ultimate Solutionは、読者自身に徹底的に冷静な評価を強いる、「究極の仮想歴史SF」といえるかもしれない。

参考文献&ウェブサイト

○歴史改変SFのデータベース
「Uchronia.net」(ユークロニア・ネット)
 ロバート・B・シュマンク氏が運営。「ユークロニア」とは、フランス語のuchronie(改変)から来ていて、「もし、○○が××したら、△△となるかもしれない」という歴史のifを扱った作品――長編小説・中編・短編・アンソロジー・エッセイ・評論等――をリスト化している。2018年10月現在で3300項目。

(11) The World Hitler Never Made

The World Hitler Never Made(ヒトラーが作らなかった世界)(ケンブリッジ大学出版局刊・2005・未訳)Gavriel D. Rosenferd著
 アメリカでナチズムとホロコーストを研究するガヴリエル・D・ローゼンフェルド教授によって書かれた研究書。

『ヒトラーの呪縛 日本ナチカル研究序説〈上・下〉』(中公文庫刊・2015増補版)佐藤卓巳編著
 小説だけでなくノンフィクション・評論・コミック・アニメ・映画・TVドラマ・演劇・ゲーム・インターネットのウェブサイト・音楽・プラモデル等で扱われているナチ・カルチャーを網羅・解説した大著。



■ 小山 正(おやま ただし)
1963年、東京都新宿区生まれ。ミステリ研究家。慶應義塾大学推理小説同好会OB。著書に『ミステリ映画の大海の中で』(アルファベータ刊)。共著に『英国ミステリ道中ひざくりげ』(光文社)。編著に『越境する本格ミステリ』(扶桑社)、『バカミスの世界』(美術出版社)、他。








神命明/F・W・クロフツ『クロイドン発12時30分』解説(全文)


 お待たせしました!
 本書の解説は、やはりこの言葉で始めるのが最も適切でしょう。
『クロイドン発12時30分』(以下『クロイドン』と呼びます)は、『樽』と並ぶクロフツの代表作であり、また、欧米本格ミステリの黄金期(諸説ありますが一般に1920年代から30年代にかけてと言われます)が生んだ屈指の傑作といっても過言ではないのですが、ここ十年ほど入手困難な状態が続いていました。その名作が、先に本文庫で刊行された『樽』同様、新訳で読者の皆様にお目見えすることになったのです。
『クロイドン』の素晴らしさを語るには、まず著者である英国ミステリ作家、フリーマン・ウィルス・クロフツの魅力を押さえておく必要があります。先に触れたように、クロフツは「ミステリの女王」クリスティと同年(1920年)にデビューし、戦後まで精力的に作家活動を続けた、「黄金時代」を代表する巨匠ですが、多くの方が指摘されているように、他の黄金期の作家に比べると作風が地味で、ともすれば退屈な印象が否めません。ただし、これはあくまで「印象」に過ぎず、作家ジュリアン・シモンズの有名な指摘「ハムドラム・スクール(退屈派)」という評価が独り歩きした感があります。実際は、『樽』の解説で有栖川有栖さんも書かれている通り、「狭義の本格ミステリの枠内に収まりきらない」多彩な作風を使いこなし、常に工夫を凝らして読者を楽しませようとした、娯楽性豊かな作家なのです。緻密な構成と正確かつ現実に立脚した描写およびプロット、という基本線さえ崩れなければどんな手法やジャンルも試す、進取の気風に富んだミステリ作家とも言えるかもしれません。
 そんなクロフツが1934年に発表したのが『クロイドン』です。34年、それは、クリスティが『オリエント急行の殺人』を、ドロシー・L・セイヤーズが『ナイン・テイラーズ』をといった具合に、円熟期に達した黄金時代の作家たちが後に代表作と呼ばれる傑作を発表した記念すべき年となりました。『クロイドン』もまた、乾坤一擲の一作として世に出たのですが、前述の通り著者の代表作であると同時に、ミステリの様々な要素や魅力が渾然一体となった奇跡的な作品として黄金期を代表する傑作に仕上がっていました。以下、紙幅の許す限り、本書の魅力の数々をそれぞれ異なった側面から検討していこうと思います。

●倒叙ミステリとしての『クロイドン』
 改めて指摘するまでもなく『クロイドン』は、通常のミステリとは異なり、最初に犯人の行動を描き捜査によって犯行の過程が暴かれるという、叙述の順序が逆転した手法=倒叙形式を採った作品です。この叙述法はクロフツが編み出したわけではなく、オースチン・フリーマンのソーンダイク博士物がその先駆けであり、『クロイドン』発表の数年前既にフランシス・アイルズが『殺意』(創元推理文庫)という長編を書いています。『クロイドン』『殺意』、そしてリチャード・ハル『伯母殺人事件』(創元推理文庫)が、倒叙ミステリ三大名作と呼ばれているのをご存じの読者も多いでしょう。解説者としては、倒叙ミステリをひとつのジャンルとするよりは、単なる叙述の手法として捉えるべきではないかと考えているのですが、いずれにしろ、クロフツは構成や描き方などが決して容易ではないこのスタイルに挑戦し、自家薬籠中のものとしています。これは後にも検討しますが、倒叙の手法を採ったことで、クロフツらしい現実的かつ綿密な犯行計画のディテールがより実感されますし、本質的には「思いやりのある経営者」である犯人チャールズ・スウィンバーンの人物像が際立ちます(よって同情できる面も多々あるのですが、それゆえ犯行に至る論理の身勝手さも倍増します)。また、本書では敢えて捜査側(フレンチ警部)の動向がカットされ、何故犯行の一部始終が暴かれたのかという「謎解き」は最後の最後まで読者(およびチャールズ)には伏せられていることが、大いにリーダビリティを高めています。

●警察小説としての『クロイドン』
 謎解きが始まる第23章「フレンチ語り始める」の冒頭では、弁護士のビングが今回の事件記録を執筆する経緯や、警察の視点から事件を描く着想が語られます。ビングはこれこそが「現実に即した推理小説だ」と断じ、ヘプンストール弁護士も「警察がさんざん受けてきた、愚かな非難への回答さ」と敷衍しますが、これらはひょっとするとクロフツの心の声かもしれません。ご存じの通り、ミステリの祖ポオからコナン・ドイル、黄金期のクリスティの作品に至るまで、多くの場合、警察は名探偵の(大抵は愚鈍な)引き立て役に過ぎませんでした。クロフツはそれに異議を唱えた(少なくとも警官を長編ミステリの主人公に据えた)最初期のミステリ作家のひとりです。『クロイドン』でも、チャールズは初めてフレンチと相対するシーンで、警部を「この男は、思いやりがあるとまでは言えなくても、道理を弁えた人間らしい。だからといって、間抜けでないのは確実だ」と見極め、決して見下すことはしません。そして、フレンチ警部による謎解きで明らかになるのは、天才的なひらめきによって真相解明が進んだのではなく、「可能性を天秤にかけ」ながら犯行方法や毒物の入手経路を特定し、慎重な確認作業や地道な捜査を積み重ねることによって遂に全容解明に至った、警察の勝利の一部始終なのでした。

●リアリズム・ミステリとしての『クロイドン』
 クロフツの作風がリアリズムと呼ばれるのは、捜査のプロセスだけでなく、犯行手段やトリックが詳細に描かれ、あくまでも実行可能なものとして読者の眼前に供されるからでもあります。レイモンド・チャンドラーは、エッセイ「簡単な殺人法」(創元推理文庫『チャンドラー短編全集2 事件屋稼業』所収)の中で、クロフツを「あまり奇想に淫しないときは、もっとも安定した作家といえる」と評価していますが、この奇想(原文では“fancy”)とは、例えば一人二役などのやや現実離れしたトリックを指しており、大抵のクロフツ作品で、よりリアリティのある解決策が提示されている点を支持しているのだと思われます(実際、機械式トリックや当時のハイテクを駆使した犯行手段が採られることが多いのです)。『クロイドン』の場合、犯行方法はシンプルですが、トリックとは別に解説者が「成程!」と膝を打ったリアルな場面を二点紹介します。ひとつは、ある書物を完全に焼却するために、棒でつついてページの間に空気を入れるところ。もうひとつは、錠剤をすり替えた犯人が、薬瓶と蓋が規格通りかどうか一瞬不安に駆られるシーン。どちらも些細な描写ながら、鮮やかに力強く現実性が立ち上がってきます。こんな迫真性のある場面が味わえるのも、倒叙という形式がもたらすメリットなのです。

●経済・企業ミステリとしての『クロイドン』
 クロフツ作品の多くが企業ミステリの側面を有している点は、本文庫『シグニット号の死』巻末の紀田順一郎氏の解説に詳しいのですが、『クロイドン』で描かれる犯罪の通奏低音となっているのは、当時の世界を襲った大不況です。1929年、ウォール街での株価暴落に端を発した世界恐慌の波はやや遅れて英国に到達し、本書の舞台となる30年代前半には、貿易活動の縮小などを通じて国内経済を大きく毀損していました。チャールズが経営する小型モーターの製作会社も、事業縮小による人員過剰、追加融資獲得の失敗、有望な契約の失注、設備投資資金不足などの苦境にまみれ、これらが遂に彼を恐るべき犯罪に駆り立てます。邪悪な行為を着想しながらも踏みとどまろうとするチャールズの葛藤を打ち砕き、正当化するのは、倒産や従業員解雇の危機という現実と、英国の思想家ベンサムの功利主義「最大多数の最大幸福」です。そして、いったん歪んでしまったチャールズの思考は、殺人行為自体を「無用な一つの命」対「有用な多くの命」という算術の問題に単純化し、あまつさえ第二の殺人に繋がっていくのです。これと全く同様の設定と論理が、『クロイドン』と同年に発表された『サウサンプトンの殺人』(創元推理文庫)の犯人たちをも衝き動かすことになります。思えば、ミステリの黄金期とは二つの大戦の狭間であり、世界恐慌という未曾有の経済危機を抱える時代でもありました。こういった現実世界での出来事をどう作品に取り入れるか(または無視するか)は、作家の資質や作劇法など複数の要素に左右されるでしょうが、少なくともクロフツは自覚的かつ積極的に自作に反映しようとし、本書を含む作品群で見事に成功を収めたと言えるでしょう。

●心理スリラーとしての『クロイドン』
 クロフツが本書に倒叙という手法を用いたことで得た効果は既にいくつか指摘しましたが、その最も大きな功績として、犯人の心理の深層に迫ることが可能になった点を評価する向きも少なくありません。その代表格としてジェイムズ・サンドーの『クロイドン』評を見てみましょう(引用は研究社出版『推理小説の美学』所収「心の短剣」より)。サンドーは、「ある意味で探偵小説はすべて、少なくとも理論の上では、心理小説でなくてはならない」と自説を述べた上で、多くの探偵小説が動機の分析をおざなりにしていると嘆きますが、「伝統的探偵小説から心理スリラーへの第一歩はフリーマン・ウィルズ・クロフツが踏み出したようなものかもしれない」と論を展開し、『クロイドン』に注目します。「この小説は念入りに積み上げられていて、読者を夢中にさせるに十分なものをもっている。その理由は何よりも哀れな主人公の心中で起こる葛藤を読者もともにするからである」など物語上の美点を挙げながら、「殺人者の心を探る小説を書くことで心理スリラーへの第一歩を踏み出した」とその歴史的意義を称えています。論文自体の発表年が古く(1946年)、素直に首肯できない箇所もありますが、少なくとも『クロイドン』が犯罪心理小説の要素も織り込んだ傑作ミステリであるという点に疑う余地はなさそうです。

●法廷ミステリとしての『クロイドン』
 さて、解説者のように本書を再読した読者も、初読の方も、一様に驚かれると想像するのが、法廷場面の比重の大きさです。法廷ミステリをどう定義づけるかにもよりますが、物語の大半が法廷シーンで推移する作品といえば、前述のサンドーらが古典として評価しているフランセス・N・ハート『ベラミ裁判』(1927年、日本出版共同)を除けば、黄金時代で記憶に残る作品は少なく、パーシヴァル・ワイルド『検死審問』(1940年、創元推理文庫)あたりがかろうじてその範疇に入るかもしれません。長編の一部にでも裁判場面が採用されている作品なら、例えば前出のアイルズ『殺意』やクリスティのデビュー作『スタイルズの怪事件』(創元推理文庫)が想起されますが、いずれも本書ほどのボリュームはありません。その意味で、『クロイドン』こそが法廷場面を巧みに取り入れた黄金期ミステリの嚆矢といっても言い過ぎではないと思われます。それは、本書の法廷シーンが長編内の単なる飾り物ではなく、密度の濃い論争が描かれている点からも納得できる見方でしょう。特筆すべきは、倒叙形式を採った必然として、裁判の結果が読み手には自明だということです。有罪であることが確実な裁判の行方をこれだけサスペンスフルに描けるのですから、クロフツ作品は退屈だという一部の見方が的外れであることは明白でしょう。

●傑作ミステリとしての『クロイドン』
 最後にもう一度、何故クロフツが本書で倒叙形式を採用したのかという疑問に立ち返ってみます。クロフツが、作中でいみじくもチャールズに語らせている「オースチン・フリーマンによる二部構成の諸作品」に触発されて『クロイドン』を著したのは確かでしょう。では、そもそもフリーマンが倒叙というスタイルを考案した狙いは何か。この点で解説者は、『フレンチ警部と毒蛇の謎』(創元推理文庫)解説の戸川安宣氏の見解に強く同意します。戸川氏はフリーマンの狙いを、あくまで真相究明に到る経緯を重視し、事件の進行を描写し、推理に係るデータを読者の前にすべて明らかにした実証的なミステリを描くこと、と看破されています。この見方に立てば、本稿の前半で指摘した通り、「緻密な構成と正確かつ現実に立脚した描写およびプロット」を重視するクロフツが、自身の作風を活かし、かつ読者にフェアなミステリを書こうとして、倒叙というスタイルに挑戦したのは意外でも何でもありません。本書における心理スリラー的な要素や読者が法廷場面でチャールズに心情的に肩入れしてしまう展開などは、その挑戦の副次的な効果に過ぎないのです。さらに、クロフツはフリーマンが作り上げたフォーマットを単純になぞるだけで満足してはいません。倒叙形式は、犯人側と捜査側という二重の構成だったり、両者の視点が頻繁に切り替わったりすることで、ともすれば(特に長編の場合)冗長な記述に陥りがちですが、既に指摘した通り、本書では捜査側の動きを圧縮してラストに置くことで、この欠点を克服しています。また注目すべきは本書のオープニングで、本来なら犯人の視点で描かれるはずの犯行場面ではなく、通常のミステリと同じく劇的な死体発見場面から始まるのも巧みな演出です(これはメインのアリバイ・トリックにも繋がっていきます)。
 このように『クロイドン』は、倒叙形式を導入し、それに工夫を加え、同時代的な問題意識を物語の背景に据えながら、犯人の心理にも肉薄し、さらには法廷場面を大胆に取り入れるなど、新たな試みに溢れ、それらが悉く成功しているという奇跡的なミステリなのです。
 冒頭に記したように、何年もの間、ミステリ史上に残るこの名作が手に入りにくい状況が続いていましたが、今回、霜島義明さんによる新訳刊行と相成りました。『樽』同様、従来よりも各段に読みやすくなった黄金期ミステリの傑作をどうぞ心ゆくまで堪能してください。

■神命明(しんめい・あきら)
1964年生まれ。京都大学卒。書評家。雑誌コラム、文庫解説等。本格ミステリ作家クラブ会員。



東京創元社 文庫60周年フェア特設サイト開設のお知らせ


大変お待たせしました! 先週の予告通り、本日文庫創刊60周年フェアの特設サイトを開設いたしました!

bunko60

今回の更新では、第一線で活躍中の漫画家さんたちによる描き下ろしイラストカバーを公開しています。
下記URLを今すぐチェックです!
東京創元社 文庫創刊60周年フェア

今後もフェアの情報を更新してまいります。
その都度こちらでもご紹介させていただきまので、ぜひチェックしてみてくださいね。
どうぞお楽しみに!







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