Webミステリーズ!

〈Webミステリーズ!〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈る月刊ウェブマガジンです。毎月5日ごろに更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

潮谷験『時空犯』 、大島清昭『影踏亭の怪談』…紙魚の手帖 vol.01(2021年10月号)書評 宇田川拓也[国内ミステリ]その1


 千葉県の船橋(ふなばし)駅前にございます書店の売り場より、国内ミステリの新刊をご紹介させていただくこととなりました。お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

 潮谷験(しおたにけん)『時空犯』(講談社 1750円+税)は、第63回メフィスト賞を受賞した『スイッチ 悪意の実験』発売から約4か月という早さで上梓(じょうし)されたデビュー2作目となる長編作品だ。

 成功報酬1000万円、要説明会出席。しがない私立探偵である姫崎智弘に届いた、情報工学博士の北神伊織から届いた謎の依頼メール。指定された会場には職業や年齢もバラバラな計8名の男女が集められ、博士の口からにわかには信じがたい話を告げられる。じつは「時間」とはただ流れているのではなく、時々巻き戻ること。そして、なぜか今日――2018年6月1日だけが、すでに1000回近くも巻き戻っているというのだ。これは自然現象なのか、それとも巻き戻しの技術を得た何者かの仕業なのか。姫崎たち招集メンバーは、博士が用意した巻き戻しを認識できるようになる薬を飲み、つぎの6月1日に備える。ところが、いざそのときを迎えてみると、博士はアイスピックのような刃物で刺殺されていた……。

 特殊な設定作りだけに留まらない、SF要素を存分に駆使した軽快かつ無駄のない話運びにまず目を奪われる。物語をあまりにも壮大な領域へとみるみる拡げ、さらに大切なひとを守るための不可能ミッションへとつなげていく盛り上げ方も上手(うま)い。とはいえ進行とともにミステリから逸脱してしまうわけではなく、本筋はあくまで犯人当て。ヒントの提示、消去法で“時空犯”を絞り込んでいく一連の流れ、犯人の常軌を逸してはいるものの切なる動機の意外性は、本格ファンを唸(うな)らせるに充分と断言。

 デビュー作『スイッチ 悪意の実験』では一見すると酷薄で底意地の悪そうな遊戯小説に思わぬ温かな血を通わせていたが、奇抜な設定の本作でもその才能が発揮されていることも付け加えておきたい。2021年の新人のなかでは、これからの活躍がもっとも愉(たの)しみな書き手として潮谷験から目が離せない。

 注目のデビュー作を、もうひとつ。

 大島清昭『影踏亭(かげふみてい)の怪談』(東京創元社 1700円+税)は、第17回ミステリーズ!新人賞を受賞した表題作を含む全4話からなる連作集だ。

 実話怪談作家の呻木叫子(うめききょうこ)が、マンションの自室で異様な姿で見つかる。密室状態のなかテープで両手両足の自由が奪われ、なんと両瞼(りょうまぶた)を自身の髪の毛で縫われていたのだ。発見者である弟の〝僕〟は、姉が〈影踏亭〉なるいわく付きの旅館を取材していたことを知り、訪ねてみることに。そこで自称「占術家・心霊研究家」の水野と出会い、旅館の離れで深夜に起こる不可解な現象を教えられ、一緒に立ち会わないかと誘われる。ところがその夜、離れに向かうと、鍵の掛かった部屋のなかに、両目を抉(えぐ)り取られた水野の死体が……。

 呻木叫子の実話怪談原稿と、その怪異の現場で起こった異様な事件。ふたつを交互に行き来しながら進んでいくのが各話の定型となっているのだが、とにかく実話怪談パートの完成度が抜群で、怖い話に目がない向きなら「逸材現る!」と嬉しくなってしまうことだろう。それもそのはずで、著者は『現代幽霊論』『Jホラーの幽霊研究』といった著書をものしている研究者であり、怖さの演出はお手のもの。怪異によって引き起こされたがごとき事件を論理的に解きほぐし、その答えの先に改めてこの世のものとは思えない怖さをすっと差し出してみせる手際はじつに堂に入っている。このジャンルでは当代随一の三津田信三とはまた異なるテイストで令和のホラーミステリを切り拓(ひら)いてくれそうで期待が募る。

 ミステリ的には、表題作の唐突なサプライズとある細工、第2話「朧(おぼろ)トンネルの怪談」の頭部が持ち去られた理由、第3話「ドロドロ坂の怪談」の関連するふたつの事件の構図、第4話「冷凍メロンの怪談」の犯人が現場に冷凍メロンを置く理由と、最後に披露される推理に魅せられた。
 

ある詩人への哀歌――ここだけの『ある詩人への挽歌』訳者あとがき 高沢治


(※真相に触れている箇所があります。本文未読の方は御注意ください。)

「高沢さん、イネスを訳してみませんか?」編集のIさんから電話があったとき、「イネスって、マイケル・イネスですか、新本格派の?」と答えるだけの知識は僕にもありました。と言うか、知識はそれが精一杯。『貴婦人として死す』の翻訳が終わり、次作品の翻訳依頼を心待ちにしているときです。因みにスコットランド独立住民投票があってから二年ほどあと。「新本格派」と口にしておきながら「イギリス新本格派」で親しく読んでいるのは、マージェリー・アリンガムくらいで、創元推理文庫にイネスの作品がほとんどないこともあって、僕にとってイネスは名のみ高い縁遠い存在でした。イネスがオックスフォード大学の英文学教授だったと言うことも聞きかじっていたので、なんとなく近寄りがたい(そう言えば、ニコラス・ブレイクも桂冠詩人でしたね。イギリス新本格派は学識豊かすぎる)。しかし、ありがたい申し出だったし、訳者としてあまり育ちのよくない僕は、出されたご馳走の皿がほかに回されるのを怖れ二つ返事で引き受けました、この作品がイネスの代表作であることも知らぬまま。(創元推理文庫でカーター・ディクスン名義のカー作品の翻訳をする前は、主として、受験生相手の予備校に頼まれて模試の問題を作ったり、入試問題の全訳や解答解説を書いたりする仕事をしていました。育ちがいい、とは決して言えない)
 底本到着。「アプルビイ警部ミステリー」と副題がついている。しかし、このとき既に僕は、本書が複数の語り手による、やや錯綜した語りの構造になっていること、アプルビイの推理が最終的真実には到達しなかったことを知っていました。さらには、原書がAmazonの読者評で概ね好評な一方、「スコットランド語のせいで読みが遅々として進まず」「アメリカ人読者は読むな」といった星一つの評価が散見されること。つまり、訳者にとってはスコットランド語が大きな障壁となるということ。しかし、本当に心強いことに、桐藤ゆき子さんによる先行訳があることも確認していました。
 翻訳開始。予想通り、翻訳のペースがまったく上がらない。最初の語りはユーアン・ベル。自らを教会の重鎮と恃み、若いときに苦学してラテン語そして古典文学を修め、現代文芸評論にも目を通していた、屈強な靴直しの老人。人物設定が狂っているとしか思えない。おまけに「この話はまたあとで」「そう言えばこんなこともあった」と話がまっすぐには進まない。そしてスコットランド方言だらけ。僕は僕で、受験問題の解説をやっていた育ちの悪さが災いし(幸いし、と言い直すべきか?)、一つでも意味の不確かな単語があると不安で、徹底的に潰さずにはいられない。文脈上この意味にしかならないとわかっていても、確証を得るまで調べてしまう。訳者に向いているのか、不向きなのか。お蔭で、当時パソコンのブラウザーのブックマークには、中世英語やスコットランド語の辞書サイトがずらりと並んでいました。真夜中過ぎに、散々ジャンプした後で、お目当ての語義と使用例を見つけたときの喜びといったら!(ところで、このご老人、「創作の才は悪魔の誘惑」とのたまっておきながら、ある語りの陥穽をしれっと仕掛けています。気になる方は是非本書を!)
 原書には、went benという表現が繰り返し出てきます。benは普通の辞書にも載っている副詞で、この場合「部屋の奥へ、内部へ」といった意味ですが、雨の多い日本に雨を形容する言葉が数多くあるように、牧師のジャービー博士の言葉を借りれば「いつも変わらぬ灰色の空と心まで曇らせる冷たい海霧」の晴れないスコットランドでは、野外での楽しみよりも暖炉のそばを好む傾向が強いから、こんな副詞があるのだろうと、僕は勝手に納得しました。この頃までには、スコットランドへの共感、と言うよりスコットランド贔屓がしっかりと根を下ろしていました。
 次の語り手がノエル・ギルビイ。名前から想像できるようにクリスマス・イヴ生まれで、「僕の車は大きいから小さな車と一緒になるのはいつも気まずい」と言ってのける金持ちの御曹司。ええしのぼん。恥ずかしいことに(本当に恥ずかしい!)、この青年が『ハムレット復讐せよ』の主要登場人物の一人であることを、前作未読の僕はIさんに指摘されるまで気づきませんでした。この部分は、彼が恋人に宛てた日記風の書簡という胡散臭い形を取っているものの、冗長な語り口が僕にはありがたく、ここでほっとひと息。ところどころに文学上の造詣をにじませながらも、ガスリーの死までは軽口を叩くように綴られていく。僕の駄文にここまで付き合ってくれた方ならおわかりでしょうが、冗長は大好物。ギルビイとは気が合い、このパートは翻訳がはかどりました(推理小説との馴れ初めが、小学生のとき少ない小遣いを貯めて買ったポプラ社の『怪盗ルパン』シリーズや『少年探偵団』シリーズであり、友だち数人とめいめいの買った本を貸し借りして読んだ僕が、いいとこのお坊ちゃんと気が合うのは愉快)。しかし、ギルビイ青年も、ガスリーの死に接すると責任感の強さが顔を覗かせ、本来の生真面目な性格が記述にも反映され始めます。この切り替えは見事で、それがちゃんと訳出できていることを願うばかり。
 次の語りは弁護士のウェダーバーンによってなされ、ここからが言わば解決篇。ここには、というより、彼には、翻訳上の大きな罠がありました(然るべき知識があれば難なく避けられるし、そもそも罠じゃないだろうという指摘はごもっとも。当方スコットランドの事情には詳しくないので。翻訳を引き受けた者が臆面もなくよく言うな、と自分でも思います)。ウェダーバーンはwriterであると述べられているのです。当然のことながら(当然のわけない)彼は「作家」でもあるのだと思って読み進めていました。ご丁寧に、彼には近々本を上梓する計画があることまで述べられていて、罠の偽装は完璧。事情を知っている読者は、笑い、軽蔑さえするかもしれませんが、こっちはスコットランド方言の海の中を泳ぎ切ったつもりでいたので、こんな言葉に引っかかるとは思ってもいない。それが、Signet Libraryという言葉が出てくるあたりから、どこかおかしい、と思い始める。結論から言うと、writerは事務弁護士。作者には無知な日本人の訳者を引っかけようとする意図などまったくなく(これは当然)、最初からウェダーバーンの素性をはっきり明かしているので、こっちが勝手に躓いている体【てい】たらく。makerが詩人なら、writerが弁護士であるのは、前もって知らなくても類推できるだろう、と言われたら返す言葉がありません。ウェダーバーンは、法廷外弁護士協会(スコットランド王の玉璽使用を監督する権限を与えられた事務弁護士の集まりに起源を持つ組織)に所属する優秀な弁護士なのです。彼の説明によるガスリー墜死の真相は、本当によく考えられたもので、様々な伏線を綺麗に回収します。これだけで一つの作品にしてもいいと貧乏性の僕は思いましたが、わずかに解決されない部分が澱【おり】のように残る。
 それを解きほぐし、ウェダーバーンの描く犯罪の構図を一変させるのが、次の語り手であるアプルビイ。学者ネズミ(奇想にも程がある、もはや脱力ものの仕掛け)によってもたらされる、フリンダーズ医師(どんな人物か知りたい方は是非本書ご一読を!)の手記を挟んで、アプルビイは、ジグソーパズルに喩えられる犯罪の構図をもう一度組み立て直す。ベル老に「目から鼻に抜ける」と評されるだけあって、心理学用語や象徴を巧みに織り込んだ説明は鮮やかで、訳している僕が、真相が明かされた後の残りはどう展開させるつもりなんだろうと、余計な心配をしたくらい。
 しかし、僕も気にはなっていた一つの疑問がまだ解決していない。あれはどうなるのだろうと漠然と考えていると、ある衝撃的な事実が外部から(!)もたらされる。このあたり、日本の昔の推理小説によくある「神戸の市役所に行って戸籍を調べてみると……」といったご都合主義が匂わないでもない。(推理小説解決篇あるある?)しかし、イネスはこれにも伏線を張っていて、人物造形の一環だと思っていたものが巧みな伏線だったことを読者は思い知らされることになります。この事実を踏まえて、犯罪の真の動機を解明するのがジャービー牧師。いかにも頭の切れるアプルビイを差し置いて、ジャービー牧師が(もう、職業上の知見と言ってもいいと思う)心理的洞察を働かせて、七つの大罪の一つに数えられる動機を指摘する。この後、さらなる悲劇があり、ガスリー殺害の犯人が最終的に明らかになる。いい場面を攫っていくのが、ジャービー牧師とユーアン・ベルという老人コンビであるのが、終活という、真面目なんだかふざけているのかわからない言葉が視界に入って来つつある僕には好ましい。アメリカにいる関係者を思って二人が交わす会話にしみじみしたり、最後にエルカニー城まで足を延ばし、過去に落ちたままの城を眺めながらも、農場に帰ってきたギャムリー一家に未来の希望を見ているベル老の姿に、「これがやっぱり年寄りの正しい姿かな」と思ったり。
 訳し終えたとき、僕は素晴らしい作品を翻訳できた喜びを「僕だったら『世界傑作文学全集』の一冊に入れますよ」と、担当のIさんに熱に浮かされたような言葉で伝え、笑われた記憶があります。

 しかし――それ以後、出版にたどり着きそうな気配がまったくない。『白い僧院の殺人』が先に出たり、また別の作品の翻訳を依頼されたりしたものの、『ある詩人への挽歌』は、海外推理小説翻訳の迷宮の中にすっぽり落ちてしまった観あり。この間に、海外では本書に関係することで大きな政治的動きがあり、吃驚しました。イギリスのEU離脱です。スコットランドが独立を思いとどまった直後の、親方ユニオンジャックのEU離脱。スコットランドにはEU残留を望んでいた人が多く、これなら、独立住民投票のときに北海油田を抱えてイギリスから独立した方がよかっただろうと、すっかりスコットランド贔屓になっていた僕は考えました。北海油田の埋蔵量に不安があったか、独自通貨を持たないままの独立は危険だと思ったか。

 動きがあったのは、今春、すなわち二〇二一年春。めでたく出版の運びになったことが担当のIさんから知らされました。しかも「年寄りの言葉であることを示すのに、一人称の〈わし〉と語尾の〈じゃ〉だけで済まそうとするのは訳者の怠慢である」という旨の、尊敬措くあたわざる学窓先輩の言葉を引いて。ヘンリ・メリヴェール卿シリーズを〈わし〉と〈じゃ〉で乗り切ってきた僕にとっては、校正に際して釘を刺されたも同然。ドラキュラの心臓に刺すくらいの太い釘ですね。ですが、今の時代、年齢は性別以上に言葉遣いで表現するのが難しいもの。老齢を示そうとして不自然な言葉を用いるくらいなら、〈わし〉と〈じゃ〉で通すつもりでした。ちょっと控えめに用いて。完全な面従腹背で、育ちが悪いのは隠しがたい。野良生活が長かった猫が、保護された後もなかなか懐かず、ち○ーるをもらうときだけゴロゴロ言って、あとはシャーッと威嚇するのと同じ? 喩えが強引? 幸い、作品の時代が時代であり、場所がスコットランドの辺境、加えて作者の力量のお蔭で、僕の頭の中では登場人物の造形がくっきりと出来上がっていたので、これで悩むことはありませんでした(悩めよ、と自分に)。とにかく、それ以外で悩むところが目白押しでしたから。
 校正については、担当編集のIさんと外部校正の方のご尽力に甘え放題。先述したように、冗長な表現と同語反復は得意技であり、さんざ指摘されても直らない。訳語の統一もいい加減で、ある作品など、「〈台所〉と〈キッチン〉が混在しています。ちょうど半々、どうします?」と呆れたような問い合わせをされたくらい。翻訳あるある?……なわけないか。
 こうして、校正も無事に終えた今、「ギルビイの言うように『書き散らし』でいいですから」と乗せられ、あまり大っぴらにできない「独立あとがき」を本当に書き散らしています。育ちが悪いにもかかわらず、翻訳作品には恵まれてきました。とりわけ本書は素晴らしい。複数の語り手という設定を生かして、事件の構図を手品のように変化させる手際は誰もが名人の冴えと認めるでしょう。「だまし船」と言うのでしょうか、帆掛け船の帆をつかんで、目を一瞬閉じてから開けると、舳【へさき】をつかまされている、という折り紙がありますが、僕にはこっちの喩えの方がジグソーパズルよりもしっくり行くように感じられます(TVドラマ『相棒』にも出てきましたね、トリックとは関係がありませんでしたが)。あるいは、広げ方を変えると絵柄が変わる、子供向けの紙細工「変わり絵」の方がより適当かもしれません。
 しかし、最後に強調しておきたいのは、謎の展開もさることながら、語りが進んでいくにつれ、ラナルド・ガスリーという人物の輪郭が、より深く、暗い色調を帯びて浮かび上がっていくことです。鑿【のみ】で削られるようにして、細部の陰影に富んだ彫像が出来上がっていくと言ってもいい。初めは、奇矯な吝嗇家としか映らなかったラナルドが、最後には、過去の罪障に押しつぶされ、出口のない迷路に閉じ込められて精神に破綻をきたしていく悲劇的人物として迫ってくる。Lament for a Maker『ある詩人への挽歌』は、確かにダンバーのLament for the Makaris『詩人たちへの挽歌』を下敷きにしていますが、より直接的には、かつて真摯に詩作に向き合っていた詩人であるラナルドが、自らの罪のために魂を蝕まれていく悲しい過程を謳った『ある詩人への哀歌』でもあるのです。それゆえ、僕には、ユーアン・ベルが、以前ラナルドの詩に対して寄せられた心ない批評に憤る描写が深く心に残ります。本書において「詩人であること」「詩をたしなむこと」は特権的立場にあるのです。そう言えば、最後にベル老が未来への希望を感じ取るのは、ギャムリー家に嫁いできた女性が畑で歌う歌でした。「大地が声を限りに楽しげに歌っているように聞こえてくるから、きっとこれからも歌い継がれていくだろう」


■高沢治(たかさわ・おさむ)
1957年茨城県生まれ。東京大学、同大学院人文研究科に学ぶ。英米文学翻訳家。共訳書にディクスン『黒死荘の殺人』、訳書に同『殺人者と恐喝者』『ユダの窓』『貴婦人として死す』『白い僧院の殺人』などがある。


ある詩人への挽歌 (創元推理文庫 M イ)
マイケル・イネス
東京創元社
2021-11-29


貴婦人として死す (創元推理文庫)
カーター・ディクスン
東京創元社
2016-02-27


白い僧院の殺人【新訳版】 (創元推理文庫)
カーター・ディクスン
東京創元社
2019-06-28


吉川トリコ『余命一年、男をかう』、渡辺優『アヤとあや』、波木銅『万事快調』…紙魚の手帖 vol.01(2021年10月号)書評 瀧井朝世[文芸全般]その2


 テーマはまったく異なるが、吉川トリコ『余命一年、男をかう』(講談社 1500円+税)も、今の自分自身と照らし合わせてグサグサ刺さってくる長篇だった。

 趣味は節約とキルト作り、結婚願望もなく友達もない40歳の独身女性、唯。子宮がんが見つかり医者に無理矢理聞きだした余命はなんと、1年。ショックを受けると同時に、もう老後のためにお金を貯めなくていい、と安心する姿が非常にリアル。そんな折に偶然、金策に追われるピンクの髪をしたホスト、瀬名と出会い、唯は勢いでこれまで貯めてきた金を彼に渡すのだった。

 日々の買い物はもちろん、サブスクにいたるまで工夫して節約する唯の姿が気持ちいいくらいで、「人生楽しまないといけない」といった押しつけがましい価値観に反発している姿も大いに共感。だが、生真面目(きまじめ)な彼女とチャラいが善良な瀬名とのコンビネーションも愉快で、二人にうまくいってほしくなるのも事実。しかしかといって、二人が結局大恋愛して「生きたい」「死なないで」のメロドラマになるのは嫌だなあ……と思っていたら、とても納得のいく結末が待っていた。

 互いと接するうちに、二人が自分の中の偏見や頑(かたく)なさに気づいていく姿も好感度大。今の時代の流れのなかでアップデートしておきたいものの考え方も、さりげなく盛り込まれて刺激的だ。人生観は揺れ続けるものであり、どう生きたいか、その時々で自分に素直になることは大切だと思った。

 渡辺優『アヤとあや』(小学館 1600円+税)も、価値観について実感させられる部分の多い作品だ。画家の父親が描いた、自分をモデルにした絵が高く評価されたことから、自分を特別な少女だと信じて生きてきた亜耶(あや)。でも11歳の誕生日を迎える頃、その自信は少しずつ揺らぎ始める。彼女の場合、弟が生まれて自分が家庭内の唯一の子供ではなくなったことも大きく影響しているようだ。

 学校では特に目立つタイプでもなく、父にならって絵を描こうとするが特別上手(うま)くもない。それでも、スクールカーストなどまったく気にせず誇り高く振る舞う姿は、ここまでマイペースに生きられたら楽だろうなと思わずにいられない。だが、特別であり続けるために、彼女はある日突飛な行動に出る。

 自分を特別だと思いたい気持ちは、多かれ少なかれ誰の心の中にもある。そのため、人は自分の中に他人とは異なるポジティブな要素を求めがちだ。亜耶もまさにそう。だが、学校での出来事や新たな出会いを通して、彼女は少しずつ〝等身大〟の自分と向き合っていく。

 何か突出した特徴がなくても誰もが特別な存在なのだ――と、基本的人権に繫(つな)がるような思いを抱かせる。大人にも薦めたい一作。

 新人の作品では波木銅(なみきどう)の『万事快調(オール・グリーンズ)』(文藝春秋 1400円+税)が面白かった! 松本清張賞を受賞した、現役大学生のデビュー作である。

 田舎(いなか)の工業高校。クラス内で女子は三人だけだ。読書家で学校外の仲間とのフリースタイルのラップに夢中の朴秀実(ぼくひでみ)、漫画好きのオタクで毒舌家の岩隈真子、映画好きで陸上部に所属する矢口美流紅(やぐちみるく)。愛想のよい美流紅は不満を抱きつつも男子生徒と仲良くしているが、他の二人はマチズモあふれる教室の空気に馴染(なじ)めない。将来について何の希望も持てない彼女たちだったが、ひょんなことから秀実が大麻の種を大量に入手、三人は園芸同好会を作って学校でこっそり育て、金を手に入れようと目論(もくろ)む。そう、これは軽快な青春小説であり、犯罪小説でもあるのだ。

 それぞれの得意分野の本や漫画、映画の作品名がポンポン飛び出す会話が非常に楽しい。大麻の栽培はもちろん許されることではないが、現状打破のための少女たちの逆襲には切実なものが感じられ、また、決して犯罪を全肯定するわけではない展開にも納得した。若い世代の現代社会の構造への批判的な目線が頼もしく、この著者の作品は今後も必ず追いかけたい。
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